5. 世界を駆ける、伊藤長七
・ アメリカまで 飛んでゆけ
「第五中学校に学ぶ、愛する少年たちに、是非、是非、外国語を学ばせたいものと痛切に感じいる次第です」
こう考える長七は、生徒の目を海外に向けさせようと、5月5日には生徒が紙で作った鯉のぼりに、水素ガスを詰めたゴム風船を入れ、「アメリカまで飛んでいけ」と唱えて飛ばしました。
              ”アメリカに向けて” 飛ばした鯉のぼり
鯉のぼりが埼玉に落ちたと連絡を受けると、長七は生徒に向かって、「この鯉のぼりは、アメリカから再び埼玉に帰ってきた」と話したりしました。
 
・ 長七の外遊 (行李いっぱいの少年少女の手紙とともに)
伊藤長七はたびたび外遊しています。 
五中創立からまだ3年しかたっていない1921年(大正10年)には満州、朝鮮へ。
また同年暮れから1年もの間、アメリカ、ヨーロッパ周遊。 この時は、ホワイトハウスを訪ね、大統領と面談しています。

東京府より欧米教育視察を命じられた長七は、日本の少年少女の手紙を集め、訪問先の各地の学校の生徒にこれを配って、交流を図ろうというアイディアを思いつきました。 集まったのは1万数千通。 多くは中学生、高等女学校の生徒からの手紙で、ほとんどが英語で書かれていました。

長七は行李に、日本の子どもたちの手紙1万数千通を詰め、サンフランシスコへと船出したのです。

それから五年後の1926年(大正15年)には台湾。
さらに翌年の1927年(昭和2年)には、カナダのトロントで開かれた世界教育会議に出席しています。 その帰途に「船を間違えた」と称して南米に渡り、さらにヨーロッパを回り、シベリアを経て、朝鮮より帰国しているのです。

実際は、長七自身の海外への飛躍という夢を実現するための周到な準備に基づいた視察で、有吉 明 ブラジル駐在大使が長七を案内している。
また、帰国後上諏訪町役場で「日本人として世界に活きる道」という演題で帰国報告を行っている。
二度にわたる 長七の外遊

 
・ 長七 没す
五中創設という一大事業を成し遂げつつあり、さらに海外に新たな学校を建設しようという 次なる自らの夢を追い求める長七に、妻 ふゆの急逝という不幸が襲い、更に自身も病魔に襲われました。 
1929年(昭和4年)6月末 肺炎(実は結核)で入院。 翌年の4月19日に、 療養のために転院していた 平塚の杏雲同病院で亡くなりました。 享年54歳。
五中は学校葬で長七を送り、翌年には胸像が作られました。

当初 屋外にあったその胸像は、現在、学校の玄関 正面に飾られています。
 

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 大統領との面談
旅の途中でアメリカ東部に滞在中に、ワシントン会議の公開会議の開催を知った長七は急遽ワシントンに向かい、1922年(大正11年)2月4日の公開会議を傍聴。

ワシントン会議の中核をなす海軍軍縮条約は公開会議の翌々日の2月6日に締結され、海軍主力艦の保有比は、英:米:日:仏:伊がそれぞれ 5 : 5 : 3 :1.6 :1.6 と決められた。
ワシントン軍縮会議

ワシントン会議終了直後の2月11日に会議の進行役のヒューズ国務大臣と、翌12日にハーディング大統領との面会が実現した。
大統領から「両国間の和親、永久に変ざらんことを」の一筆をもらう。

この時、長七は、ワシントン会議の精神を受け入れ、軍事大国ではなく、文化大国への脱皮を 五中生に呼びかける手紙を送っていまる。
ハーディング大統領
Wikipedia より









胸像落成式 の 様子

玄関の胸像