6. 伊藤長七の残した精神は 今も・・・
どうです、私たちの初代校長伊藤長七。 そのユニークな、型破りな、情熱家で心底からの教育者であったことをお伝えできたでしょうか。
世界を視野におさめ、国境も、性差も超えた人間教育を目指した伊藤長七の蒔いた種は、後々まで教師により受け継がれて、生徒に伝わっていったのです。

85周年記念同窓会の記念CDは、最後をこの言葉で締めくくっています。
「立志、開拓、創作、全人間的教養、国際平和、国際人、自治・・・。
こうして並べてみるまでもなく、伊藤長七は、時代に規制されながらも、その深いところで、時代を超えた目をもって教育にあたっていたことが分かります。
私たちは、伊藤長七が理想を注ぎ込み、育てた、五中、小石川に学びました。 伊藤長七の名前すら知らずに学んだ私たちも やはり、伊藤長七の教え子だったのです」

・ 卒業生の言葉
最後に、卒業生の残した言葉から、今も生きる伊藤長七の教えにふれたいと思います。
 
1929年(昭和4年) 伊藤長七校長の時代
「ある少年−心理学者の自伝的回想」 乾 孝 (思想の科学社) より
年に一回、上から現役将校が「査閲」にやってくる。 全校生徒を正方形に集め、真ん中の壇の上に立って生徒に試問した。
「何年何組何某。軍備はなぜ大切か」。 指名された生徒は「軍備はいりません」。 怒った将校は別の生徒を指名。 「我が国肇国の精神は何か」。 代わりに指名された生徒は「世界の平和であります」。
学校は窮地に立たされるが、生徒にはその後も 何一つ注意しなかった。
1936年(昭和11年) 落合虎平校長の時代
「じーちゃんの思春期」 武田 專 (出版芸術社) より
入学式校長挨拶で「五中の建学の精神は、開拓・創作であり、モットーは自由の尊重である。 自らの判断で選び取ったことに責任を持つことがほんとうの自由です。
先生方を 『さん』 づけで呼ぶのが五中の伝統です。 登校の途中で上級生に会っても先にあいさつする必要はありません。 必ず先に上級生が帽子を取って 『おはよう』 とあいさつしてくれます。 下級生の人格を尊重し、下級生をいたわるのが五中の校風です。
1950年(昭和25年) 澤登哲一校長の時代
「80周年紫友同窓会トークショウ」での話題 より
サッカーは、フィールドに出たら全て自分で判断するわけです。 監督から右へ蹴れとか左へ蹴れとかいう暇もない。 自分で局面を開拓し、その局面を創作していくわけです。 「こういうスポーツを学校の中心のスポーツに据えられたこと自体、学校の考え方というものがそこに生きていたんだな」と痛切に感じます。
1978年(昭和53年)の悲しいエピソード
クラブの顧問も参加したコンパで酒を飲んだA君。 何とか終電に間に合ったものの電車で寝込み、一駅乗り過ごしてしまう。 逆の電車も終電が出た後。 A君は線路を歩き始める。 そこへ回送電車が・・。

息子を亡くした父親は告別式で、担任に次のように話しました。
「あの子はいつも小石川を礼賛しておりました。 学校へ行くのが楽しくてしょうがない。 こんなに生徒が伸び伸びと、好きなように自分を伸ばせる小石川にきて本当によかったと常々申しておりました。
あの子が好きだったのは自由な小石川でした。 あの子が犯した過ちで、自由な小石川の締め付けが厳しくなり、他の生徒さんたちが今までのように自由が謳歌できなくなったら、あの子は浮かばれません。 先生方にお願いします。 どうか小石川が今まで通りでありますように」 と・・・・。
 
 目次に戻る  7 . 略年譜 と 参考資料  へ


Copyright Shiyu Alumni Association. All Rights Reserved