東京府立第五中学校 1918~1949 東京都立小石川高等学校 1947~2011 東京都立小石川中等教育学校 2006~ 名簿管理システム プライバシーポリシー サイトマップ





 
 
01回卒業 須賀 恒夫 さん
2021年の会報49号で「吾が校友の精神を」に、須賀恒夫さん(01C)のご寄稿 「ゆかりの色をかざし来し方(抜粋)」 を掲載しました。
戦時下を過ごした五中時代の先生方や学友の思い出を綴ったものですが、ページの都合でほぼ半分しか載せられなかったため、ここに全文を掲載いたします。
なお広報局の判断で、必要と思われる校正を行いましたのでご了承ください。
広報局 並木 隆


ゆかりの色をかざし来し方 -花の五中と歩む-』
1 はじめに
 私こと須賀恒夫は昭和18年4月、東京府立五中に入学、学業を経て社会に出てから現在に至ります。この度同窓生の五中回顧「立志・開拓・創作 -五中・小石川高の七十年-」を再読して、急に過去の記憶が蘇り、五中の創立、入学のこと、戦争、終戦から卒業前夜までを描いてみたく、古い記憶を辿りながら拙文を作成した次第です。
2 五中創立のころ 
 東京府立五中は大正8年に伊藤長七先生を初代校長に迎えて創立されたと聞きます。当時のことは五中史とか言い伝えにでしか私にはわかりませんが、リベラルな雰囲気に満ちて伸び伸びとした学校にしたいと希望を持っていられたようです。実際に五中に入学してもその気配は全く感じられず不思議に思っておりました。
 五中では生徒の品格を重んじて一人前の紳士として扱い、服装も背広にネクタイ姿でした。強制されることなく、自由に勉強した先輩の方々です。先生方は、君たちの先輩は明るく元気で食欲も旺盛、学校へ来る前に菓子パンを持ってきて10時になるのを待てずに食べだした。でもねとても勉強が出来てね、とおっしゃって後輩たちを激励するような感じでしたが、世は食糧不足の時代に入りました。
 ここで注目されたことは大学の先生になられた先輩が多く、それも理学系、工学系の東大教授が長年にわたり輩出されております。
 この中には学士院賞に輝く秀才の誉れ高い物理化学の牧島象二先生、同じく学士院賞の船舶工学の吉識雅夫先生、数学で最高の国際賞とされるフィールズ賞を日本の学者として初めて受賞された小平邦彦先生と全て五中の大先輩です。東京には府立の中学が十校以上もあり、中には世間の評価も高い学校もありますが、五中のようにこれだけ多くの理系工学系の人材を擁する学校は無いように思われます。これをみると理科の学校にしたいとおっしゃった伊藤校長の願いはいつの間にか達成されていたのです。
3 戦時における五中
 吾らが五中に入学した頃は戦時中でしたので五中生のネクタイ姿も過去となり、生徒の姿は上から下までカーキ単色でした。昭和18年3月、五中の入学試験が行われて小雪の降る運動場を何周も走らされました。体力が重視された時代で落伍するようであれば合格の見込みは薄れます。受験生はまず運動場を走り、次に学課の試験が行われ、許された者は晴れて正門をくぐることとなりました。
 駕籠町の校舎で授業が始まりました。学課の他に軍事的行事が多く、以下、授業と先生方の印象を記したいと思います。
 矢沢克先生(1929~45)は大学で歴史を専攻されて、明るく朗らかな性格で岳王と呼ばれ、白墨の小箱にも岳王と書かれておりました。信州のご出身で、冬の寒い夕方に小学校の帰り道に食べた焼き立てのサツマイモの味が忘れられないとおっしゃいました。地理の長津一郎先生(1941~45)は小柄ながら敏捷な先生で、駕籠町のプールで飛び魚のように水泳の指導もして頂きました。当時、プールに使う水は地下水を汲み上げる方式でしたので、ポンプに使う燃料が不足しがちで苦労されておられました。しばらくした後に地理を小川武先生(1944~52)に教わりましたが、物静かな優しい先生でした。
 赤羽駅から荒川の土手に出て、ここから小一時間ばかり戸田橋の方向に歩きますと五中の農場があり、園芸の鈴木昭三先生(1944)から農作業の実習を受けました。軍隊式の口調で叱責されることが多く、都会の少年に土の匂いを覚えさせたかったようでした。
 柔道と剣道が正課になりました。私の本籍の埼玉は剣道が盛んな地で、上泉の新陰流、秩父の一刀流が知られ、小さい頃は桑の木を腰に差して遊んでいました。上泉秀綱は新陰流の流祖として名高く、奈良の剣豪柳生家を配下に擁しさらに沢庵禅師を加えた剣禅一致の柳生新陰流として将軍家の指南役を務めました。新陰流の極意は三学円の太刀の「一刀両段」で、稽古には竹を赤い牛革で巻いた袋竹刀を使います。小学校の恩師、吉成正夫先生を郡山まで訪ねて「一刀両段」を遣い病魔を断った思い出があります。
 秀綱の生誕地上泉は赤城の南麓、神流川の北にあります。畑一面は養蚕の桑の木で覆われて、初夏になると赤紫色のドドメが実り、酸味と甘みが豊かな美味です。ドドメを食べてロマンな気分に浸り、祖父母が裏の畑で精を込めたトマトの香りが忘れられません。
    桑の實や今日も赤城に甘き夢
 さて、剣道の寒稽古は冷える朝の暗い道場に集まり、正座をして気持ちを統一してから始まります。鈴木幾雄先生(1932~48)は従来と同じ竹刀を使用され、この長い竹刀での稽古はまだ体力が十分でない自分にはつらいことでした。終わると身を清めてから学課の授業が始まります。こんな稽古をしても風邪で休む生徒はいなかったのです。
 当時の中学校は国から本職の将校が派遣されて厳しい訓練が行われましたが、五中はまだ良い方だったようです。しかし将校の発言力は大きく、場合によっては校長を凌ぐこともありました。ある時、生徒に夜行軍の訓練が課せられました。夕刻に新宿に参集して甲州街道を西へと夜通し行軍して10里の道を浅川まで歩きます。立川を過ぎ八王子に入る前で小休止した時に夜があけましたが、ここからの路は登坂になり折から睡魔に襲われる辛い行軍でした。生徒同士は互いに肩を組み励ましあい、半ば眠りながらも歩いたのでした。浅川の御陵に8時半について大正天皇陵を参拝して行軍は終了しましたが、落伍する者はおりませんでした。
 さらに、習志野の兵舎や富士の裾野で質素な宿泊をしながら野戦そのものの訓練が行われました。訓練中に生徒の失策があれば全体責任として全員に鉄拳制裁が科せられます。これらの教育は戦時中の茶飯時で、現在では想像もつかないでしょう。なお、体育と教練についてはC組の中台直也先生(1928~47)は陸軍士官学校の将校さんの前歴を持たれますが、全くその気配はない中庸を心得た先生でした。D組の斎藤市四郎先生(1939~48・工作)は優しく誠に愛情豊かな先生で、受け持ちの生徒に人気があり、卒業後も毎年クラス会が持たれていました。
 次は五中における理科です。博物の鈴木豊先生(1924~45)はカエルの解剖など指導されましたが、飛鳥山の近くを流れる石神井川の側にお住まいで鳥類の観察に熱心な先生でした。生徒たちに燕を初めて見た期日と場所を教えて下さいと頼んでおられました。安武徳次郎先生(1930~44)は物理を担当され、静かで丁寧に教えられる良い先生でしたが、病を得られて直ぐに他界されたことは残念なことでした。お別れには生徒一同でお伺いしました。
 化学の関野幹次郎先生(1923~60)は経歴も長く、多くの五中生が記憶されておられると思います。地味な服装で風采も構わないので、別名ロンドン乞食とかロンちゃんと呼ばれる教育熱心な先生でした。授業では毎回のように化学実験を披露され、生徒は大いに啓蒙されました。それに気体の熱力学とか化学方程式に基づく計算問題を豊富に課せられて学力向上に大きく寄与されました。
 駕籠町には理研(理化学研究所)があって理系の優れた東大教授であれば研究の中軸である理研の主任研究員を兼任することができました。当時のドイツ科学は世界で最高の水準を誇り、化学の分野でもIGファルベンを頂点に世界的に優位でありました。化学実験用の薬品もドイツ製が最高とされメルクとかカール・バウムの製品が高い純度を誇りました。理研の研究者は恵まれてこれらを自由に使えました。五中の敷地の横に理研があって、しばしば化学実験の匂いが風に流されて運動場に入って来ました。まるで五中が化学の学校であるような印象でした。関野先生によれば理研にも五中出身の科学者がおられたのです。
 数学では怪談のお好きな石川平八郎先生(1937~45)の授業を受けましたが、代数とは数字の入れ替えゲームのような印象であまり興味は湧きませんでした。しばらくしてから三和一雄先生(1929~75)に教わりましたが、サッカーの指導をされながら数学もよく解りました。埼玉の本籍に従兄達が使った参考書があり、幾何の本が面白くて読み通しましたが、これが数学への開眼でした。数学の大先輩である小平邦彦先生が理系における幾何の重要性を説いておられるのは流石です。
 国語については眞田幸男先生(1932~52・後に校長1964~69)、増渕恒吉先生(1946~49)のベテラン先生にお教え頂きました。国文学を愛され、万葉集、平家物語、太平記、芭蕉の古典に親しまれ、時枝文法を基に徹底した基礎教育を行われた眞田先生、平安朝文学の専門で国語辞典の編集にも携わられた増渕先生の授業はまことに幸せでした。
 英語について森一郎先生(1924~47)の授業を受けましたが、初めての外国語のこともあって馴染めませんでした。やがて英語は敵性語として国の命令で教科から外されました。海軍兵学校の校長が戦争に必要であると主張して譲りませんでしたが、結果としてすべて廃止され英語を学ぶ者は国賊になり、後に大きな損失であったことを悟りました。
 時勢は急速に進み、直ぐに学業を放棄する勤労動員が現実となりました。命令は内閣印刷局滝野川工場で働くことです。ここは厳重な監督下で紙幣や切手を印刷、製造する明るい職場でした。中村信夫工場長は見識の高い機械工学者で、生徒の面倒もよく見てくださり、週に一度ほど工場の広間で授業を受けることが許されました。時節柄こんなことをしてよいのかと、英断に驚いたほどでした。この頃、軍関係の学校への応募が急速に増え、合格が難しくなりました。先生の中には「軍籍に入るだけがお国に尽くす道ではないのだよ」と暗に諭される方もおられました。
 陸軍では幼年学校、海軍では予科練が中学生でも受験できました。幹部を養成する陸軍士官学校、海軍兵学校は中学を卒業してからでしたが、この時期に合格することは極めて困難でした.「カイヘイニゴウカクス」の電報を手にした少年は有頂天に喜びましたが、後には過酷な運命が待っていました。ある江田島在学中の先輩が五中の演壇に立ち江田島生活の素晴らしさを語りましたが、この当時の戦況はかなり厳しくなっておりました。日本の艦船技術非常に優れて速力、攻撃力、航続距離において他国に引けを取らず、月月火水木金金の猛訓練を経て夜戦とか奇襲攻撃を得意としておりました。それが電磁兵器に遅れをとると出撃した艦艇は優れた性能を発揮する前に自らの位置をすぐに探知されて被害は重なりました。
五中の先輩も当時の戦況に触れて、これは俺たちで何とかする。もし出来ない場合には貴様らに頼むぞと結びましたが、このとき戦争に負けることを予感したのです。大先輩の口から水が漏れたのです。南の最前線にラバウル海軍航空隊があり日本で最強との信頼を得ておられましたが、戦線の縮小によりラバウルから撤退することになりました。これを惜しむ声が強く「さらばラバウルよ、また来る日まで」の小唄が歌われました。
 山本五十六連合艦隊司令長官は長岡のご出身で、将校の頃に私の郷里の川にみえて鮎釣りなどに興じられておられました。国の実力をよくご存じで戦争には決して賛成しなかったのですが、結果的に全海軍の指揮を取らされて南の海に出撃されたまま還りませんでした。日比谷公園で国葬が行われ、記憶が定かではないのですが海軍軍楽隊が演奏した曲の中にシューベルトの「菩提樹」があったような気がしています。「ここに幸あり」と外国の音楽を奏して長官を優しく迎える当事者の配慮だったのではと思いました。軍備を整えて戦争すれば勝てるとする妄想は極めて危険で、現在でも以前と同じく残り、結果的に国を滅ぼします。これを防ぐのは国民の叡智しかありません。
 動員先の工場でも空襲が酷くなり、その度に印刷機の下に潜り、警報が解除されて外に出ると高射砲弾の破片が地面に刺さっていました。駕籠町校舎が全焼したことも報じられ、工場も木造部分は焼け落ちました。飛鳥山に立ちますと池袋は焼け野原になり、新宿のビル街が見渡せました。井上宗助校長(1938~45)が退任され、新しく澤登哲一校長(1945~58)が着任されて、工場正面に整列した生徒の前で就任の挨拶をされました。昭和20年6月のことで、後に母校の生物教師となったC組八重樫健弐兄(1978~91)が覚えております。澤登校長は生徒の行動をよく見ておられ、「オメーラ、ソンナミットモダラシネエコトスンナ」式のべらんめえ調で言われる方でした。工場では軍事教練が強化され、手榴弾を腰に下げて地面を這いながら相手の陣営に接近し投げ込む訓練が真剣に行われました。信管を切る間合いが大切で早過ぎると逆に投げ返され、遅すぎると自滅します。
 私の本籍を流れる神流川の対岸にある大都市前橋は、ある夜にB29の大編隊の空爆を受け市街は火の海に包まれました。防衛する友軍機はなく、低空で我が物顔に飛来するB29は照らし出され、弾倉が開かれて焼夷弾が吐き出される様が肉眼で見えました。一夜にして前橋は消え去りました。さらに戦況は悪化して広島、長崎に原爆が投下されました。国内で徹底抗戦を叫んでいた軍部も、原爆の恐ろしさを知るとポツダム宣言受諾の方向に替わりました。遂にラジオから玉音放送が流れて、無条件降伏の終戦が告げられました。
 戦争はあっけなく終わりました。数日すると職場に占領軍の兵二人が機関銃とピストルを腰の前に掲げながら注意深く入ってきました。職場の人々も突然の出来事に固唾を飲みながら茫然とするばかりでしたが、戦争に負けたことが実感されました。列車などもすべて停止、盛夏さなかの線路にはペンペン草が生えてきました。
4 復興、復学から卒業前夜まで
 終戦を告げられた生徒はただ茫然とするばかりでした。世の中の先のことは見当もつきません。職場では赤紙招集により男性作業員が大きく減っており、中学生の負担も増しました。焼け跡整理の硝煙で帽子のムラサキの校章も陰りました。生徒はただ黙して働くのみでした。戻るべき母校の校舎はすでに失われ、滝野川の造幣廠跡に移り11月から授業が行なわれましたが、荒廃した雰囲気でとても学校のような環境ではありませんでした。滝野川にいる時でしたが教育熱心な英語の関口孝三先生(1924~49)が米軍の高級将校を連れてこられて小一時間ほど本場の英語を聞かせてくださいました。すぐ最近まで敵性語として駆逐されていた言葉なので生徒の理解までには至りませんでしたが、大きな刺激になりました。
 しばらくして同心町の鉄筋校舎に移り、生徒たちは駕籠町に戻ることもなく卒業まで勉強しました。ここで英国人のアイバン・ベル先生(1948~71)に本場の英語を教わりました。大塚駅から徒歩で学校へ通われたお元気な先生で、リトル・ロンドナーを講読されました。本場の英語は発音も明瞭で分かりやすい先生でした。このようにして次第に英語に慣れてまいりました。しかし勤労動員による学力の低下は大きく、簡単に修復できるものではありませんでした。
 終戦とともに優秀な人材を集めていた軍関係の学校が全て廃校になり、生徒たちが巷に溢れましたが、動員組ほど学力の低下はないようでした。さらに疎開などで地方に分散していた生徒が復学しました。このように生徒の出入りが激しくなって組替えもあり、従来からの固定した組も一定せずに落ち着かないまま年が過ぎました。
 この時救いだったのが放課後に設けられた研究会でした。私は関野先生が主催される化学研究会に入れて頂きました。先生のお陰で実験も楽しくかなり自由にできました。あるとき硫酸銅の濃い溶液を作りました。溶液の温度によって溶解度が違うことを本で知っていましたので、試しに本の微結晶をビーカーに糸で吊るして帰宅しました。一日おいた月曜日に来てみると長さ約8cmの硫酸銅の単結晶が溶液内に吊り下がっておりました。斜方晶系の見事な結晶であり、理論的には可能ですが大きな単結晶ができるには様々な条件が一致することが必要です。関野先生はじめ他の先生も驚かれて色々と検討されましたが、折から開催された創作展に発表させて頂きとても嬉しい思い出になりました。 なお、この研究会の生徒の中に加藤正明さんがいました。剛勇を馳せて七たびの感状に輝いた加藤隼戦闘隊長のご子息さんです。正明さんは父親とは反対の静かな学徒で後に物理を学ばれ東大で教授をされました。私は企業に就職してしばらくして縁あって私大の講師を拝命しましたが、同じく講師に加藤先生がおられることを知り思わぬ再会を喜び合い、ご著作をいただいたりしたのは嬉しい思い出です。
 さて同心町での生活もやがて受験地獄の社会に変わります、折から学制改革が施行されて従来の小学6年、中学5年、高校3年、大学3年が、全体で1年短縮されて小学6年、中学・高校各3年、大学4年に変わりました。この短縮に対する異論もあったのですが、日本側の主張は一切通りませんでした。さらに定められたコースを踏んだ生徒の他に、軍関係と旧制度の受験生が溢れた厳しい受験でした。この変更に国会での審議が追い付かず予算が決定したのは6月でそれから入試が行われました。幸運に網にかかっても入学は7月になり1学期の授業はできずで、学生は折からの食糧不足に耐えて辛い生活を送りました。
 教養課程ではドイツ語の授業が多く行われましたが、ドイツ化学が優位にあった時代です。音楽を通してドイツ語に接して、ゲーテ、マン、ヘッセ、シュトルムなどの作品を興味深く読みました。やがて専門課程に進みましたが工学部応用化学科には全国から相応の士が集まり、ドイツ語で講義をされる教授もおられました。そしてクラスの中に五中で関野先生から化学を学んだ輩が5名いたことは大きな驚きであり、ご薫陶の深さに改めて感謝を捧げました。やはり五中は理科の学校だったのです。やがて、我らの学校生活も終わりを告げました。
5 長期間ご指導頂いた先生方 
 この章ではかなり長期間ご指導いただきまして恩恵の深い三先生についての思い出を再び書かせていただきます。それは印刷局の中村信夫工場長、五中化学の関野幹次郎先生、国語の眞田幸男先生です。
 中村工場長は五中の先生ではありませんが、勤労動員の指導者として非常に恩恵の深い方です。根からの機械工学者で健全な見識を持たれ、深い洞察力で技術を、そして五中生も指導されました。五中生にも勉学の時間を下さるなど時節柄を考えられないようなご理解のある有識者でした。印刷局の技術者として最高位の製造部長を務められてから退官されました。退官記念集「越えて越えて」を出版されましたので私は「三十年前の中村信夫先生」の節分を寄稿いたしました。その後推されて先生は日本印刷学会の会長に就任されました。併せて印刷専門の大学で教鞭を取られました。
 後日私は印刷学会に入れて頂きましたが、先生は再会をとても喜ばれました。学会誌に報文を投稿しますと先生はよく電話を下さり大いに励まして下さりました。このようにして後輩は成長していくものです。
 関野幹次郎先生については多くの先輩が書かれておられるとおりで、飾らない実直で熱意が溢れる先生でした。よく理研や東大で活躍する先輩の話をされましたが、これが生徒には良い刺激になったのです。時間には正確で授業中でも時間が来ると「ヤメマス」の一言で終了されました。おそらく五中の理科の先生の中でも素晴らしい方であられたと思います。
 国語の眞田幸男先生は、根から国語を愛されてやまない先生でした。芭蕉の「この一筋に繋がる」とか萬葉集の秀歌がお好きでした。太平記の俊基朝臣再び関東下向の事の一節「落花の雪に踏み迷ふ・・・」は先輩の上級生まで記憶されているように眞田先生のお好きな文で、同窓会などで皆が集まり誰かが口にすると瞬く間に同窓全員に広がり全体の大合唱になります。まるで全員の担任が眞田先生であるかのような印象です。眞田先生の国語は文法重視、正確を極めるので生徒には効果がありましたが、成人の方には抵抗があったかもしれません。眞田先生は一度ほかの高校の校長に出られてから再び母校の校長に戻られましたのでお幸せだったと思います。先生の晩年に教室で板書された萬葉集のすべてを紙に清書してお送りしましたらとても喜んでくださいました。五中の国語でお教え頂いた先生は眞田先生と増渕先生だけですが、いずれの先生からも大きな感化を受けました。
 太平記の道行文も芭蕉も萬葉集も素晴らしい韻を踏んだ音楽的な響きがある名文で、これこそ日本人が後世に伝えるべき教養と英知が含まれていると思います。先生は見事にこれを教えて下さいました。
6 五中教育の概観
これまで理科の学校として五中を見てまいりましたが、五中には文系の英語でも独語でも、そして仏語においてもまことに堪能な同窓生がおられました。滞在歴が長くフランスムードがしっかりと身について見違えるような方がおられました。私の数少ない体験ですが、パリを他国語で旅するほど野暮天はないこと、パリの真の美しさはフランス語の語感を通してのみ感じられることでした。
     ボンジュールカッフェさやけきパリの朝
五中に入っても理科の学校としてそれらしき気配はなかったので教科は全般を網羅して偏見的な見方は許されません。あれから多くの月日が経ちましたが、長い間の私の僅かな体験を通して学びについての心構えとか感想を次にまとめてみたく思います。このごく一部でも若い方のお役に立てれば幸いと思っております。そして今一度当時を振り返って五中の良さと特徴を考えてみたいと思います。
イ. おおらかに、のんびりと
 この校風は、初代の伊藤校長から始まり多くの五中先輩を成功に導いた流儀でもあり、今後とも是非継続させたい五中の魅力と思います。おおらかに、それものんびり歩むほどに見えないものが見えてきます。これは、決して怠慢ではなく歩むテンポを下げることです。
 昔はよく飛び級がありました。成績が良いため背伸びまでして先のクラスへ進むことです。五中の先輩にも成績が良くて飛び級を薦められても当人にはその気がなく現状を地道に歩まれた方がおられましたが、結果として正解だったようです。調子に乗って焦らない方がよいこともあります。次は私の体験からですが、よい学校とは?決して建物でも設備でもありません。学校を構成する人材、すなわち先生方の質、それに大きな気持ちで生徒を包む校風にあります。厳しい受験界ではとお𠮟りを受けるかもしれませんが、若者が学ぶ気を起こすのは自ら生ずる気持ちなのです。学ぶ意思が自然に湧くような環境が必要で、決して勉学を強制しない方がよいのです。
ロ. 秀才であるな、凡ながら着実に歩むこと
 良い学校と評されるほど秀才であることを誇りにする生徒がおられます。理系の場合ですが、あるテーマが与えられ研究を始めます。思考を進めるうちに先が見えてきて自分なりの結論に達して、こんな結果では満足しないと研究を止めてしまいます。また別な角度から考察を進めて別な結論を得ても、時間と費用を考えると満足できない。この間に何年も経ってしまい研究者としての能力まで疑われます。理屈だけにこだわると思考の幅が狭く、柔軟性に欠け、頭脳の硬直、先は暗く大成は望めません。凡ながらも地道に着実に考えを進めて精進することこそ理科には肝要です。ゲーテの格言「人間は努力する限り迷うものである」のように、努力して迷いながら研究者は成長するのです。
 萬葉集にみる「あなみにく賢しらおすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」は秀才ぶる輩に対する痛烈な皮肉です。真の秀才など世の中には多くはおりません。眞田先生はこの意味をよく考えなさいと教室でおっしゃいました。
ハ. 研究の対象を見極めること
 現在の色の科学はニュートンの太陽白色光をプリズムを用いて7色の色光に分散させる実験から始まります。さらにフランスの照明委員会による綿密な数学的処理を経て現在の測色学として一つの体系をなしております。その結果、現在ではすべての色は色度座標として数値で表されます。なお、ゲーテは愛の詩人として西欧文学の最高峰に立つ文学者です。ゲーテはニュートンより後に生まれましたが、ニュートンの数学処理に生涯にわたり反対しました。ゲーテによれば、白色光は自然のままの光であり、ニュートンは拷問台のプリズムに架けて自然に自白を強制させたので自然の姿を表していない、が反対の概要です。ニュートンは自然の一部を切り取って論じているので、正確に言えばプリズムの科学です。このゲーテには少ないが賛もあり詩人のキーツ、日本では夏目漱石、その弟子である物理の寺田寅彦などです。ニュートンの説には欠点もあり、ヒトの感性を一義的に規定したので汎用性に欠けることです。一方、ゲーテは三十年に及ぶ独自の色の研究を三分冊の「ファルベンレーレ」として観察を中心に数学を一切使わずに出版して画家や芸術家に愛用されております。このように自然科学を対象として扱う場合には適用範囲をよく考えることが必要です。
ニ. 国語の重要性を認識すること
 五中で国語の教育を受けた方ならばよくご存じと思いますが、古典を読むほどに国語力が増します。古典が現代文に何の役に立つかなどの論は五中的ではありません。理系でも文系でも報文を書くとき、物事の考察とか論理の展開を行うときには鋭い国語力が必要と思われますが、今の世相を見ますと、英語だ英語だ、と騒ぐばかりで国語ができるのは当然のように扱われております。しかし世間における英語の水準はあまり評価されていないようですし、英語も駄目、国語も駄目では、国の将来を危うくするような事態で真剣に考える必要がありそうです。
ホ. 外国語として英語だけでは不十分です
 ここに国際的に通用する科学文献としてCIE(国際照明委員会)の光学規格を例に引きます。光と照明に関する科学は主としてフランスで発達して長い歴史があり、この分野の科学文書は伝統的な習慣で最初にフランス語版が作成されて、これを基に英語版とドイツ語版ができて規格が完成されます。最近の傾向として英語が優先されるようになり場合によっては仏独が外されることもあります。これは英語が多くの国にとって扱い易いことで金利主義の世界においては当然のことです。これには負担になっていた語学の障害が無くなるので歓迎される面もありますが、科学の進展の経過がすべて無くなってしまう欠点があります。
 同じような現象が日本でも見られます。以前は科学に関する学会で外国語の論文は英独仏による投稿を受理しており、かなりの量の良質な論文がありました。最近は欧米の流行を追ってか日本でも英語しか認められません。一流の学会誌に掲載するには専門の先生による学術と語学を含めた論文審査が必要とされますが。内情は語学面の審査をされる先生がおられなくなってしまった背景があるようです。この点は学術の欠陥として指摘さるべき問題でしょう。仏独語の排除は便利な反面、学問の偏見が起こり、進歩と歴史の重みを失うことで知的水準に大きな損失を招くことになります。身近な例として次節で環境と生態系を挙げることにします。
ヘ. 環境と生態系を重視すること
 ドイツの東側をエールツ山系が走ります。かなり前からこの地帯の住民には奇病が多いことが囁かれておりました。これは年月を経てから山系に埋蔵される放射性物質から放射される微量の放射線による肺がんであることが分かりました。古い文献を調べればこの放射線による影響がかなり解明されて現代医学への寄与が期待できると思いますが、あまりに古いことで外国での現象でもあり、かつドイツ語であることが障害になって解明には至っていないようです。
 福島の原発事故で大きな放射線汚染が問題になりました。特に飯館村の汚染は大きく、人間は住めない状況にあります。放射線セシウムの半減期は30年ですから10年ぐらいではどうにもなりません。いつまで待てばよいのか、放射線の限界値は国際的に厳しい値と緩い値と二種類あるそうです。村と政府の協議で村長は厳しい方の値を主張したのですが、結果的に政府に押されました。新聞紙上に公開されたので、別の専門家とか第三者による公開意見が期待されたのですがないようでした。
 以前は製造工場の多くの方は環境問題に関心が薄いようでした。まだ若い頃ですが海岸にある化学工場を見学した時のこと、工場の排水をパイプで海まで運んでそのまま流しているのです。案内された技術者の方に「こんなことをしてもよいのですか」と質問しましたが、すぐに答えられました。「君、目の前の海を見てごらん、海はこんなに広いのだよ、少しぐらいの排水を流しても問題ないさ」でした。多くの工場でも同じような作業をしていたので、何年かしてとんでもない事態に発展しました。海水汚染公害です。その例が九州の水俣公害です。有毒の有機水銀が海に蓄積されて人畜に被害を及ぼし、裁判で企業は責任を問われました。少しの油断が大きな公害に発展する例です。
 最近、築地の市場移転の必要性が起こり、近くの候補地が検討されました。調査を進めるうちに有害物質のクロムが大量に検出されました。それが掘るほどに出てきます。この土地の以前の使用者に原因があると考えられて、それも長年にわたる廃棄物の為と推定されました。止むを得ずクロムを含む溶液を廃棄するときに、濃度を薄くすればよいと判断して大量の水に溶かして捨てたのです。いくら水を加えてもクロムの実質量は変わらないので、拡散する面積と深さが増すばかりでした。周辺の地域を含めて被害は大きく、この問題に対するその後の回答は聞いておりませんが、誰にでも思いつくような逃げの発想だけに身近な問題として大きな教訓となりましょう。
7 再び原点に戻り、国語から出発します
 本稿では日本人の思考の原点として国語の重要性を述べましたが、次に日本と外国について繰り返します。五中で学んだ方々ならこの趣旨を十分にご理解され、功を遂げられた先輩の方も一致して述べられておられます。さらにかなり年配の皆様の話によりますと種種の国家試験がありましたが、受験科目の中で国語漢文が一番難しかったとのことです。自分たちは国語を眞田先生と増渕先生に習っておりますが、五中には厳しく学力も豊かな先生もおられたそうです。五中生の豊かな発想と教養はこれらの先生の恩恵に負うところが多いものと思われます。
 以前の学生は所属する学校の学生寮で生活することが多く、それは集中して勉学に励むこと、貧乏学生には生活費の節約になることでした、学生には遊興などなく、勉学のための学校生活でした。その学生寮に入りますと各部屋に落書きが目立ちましたが、多くはゲーテの名詩とか哲学者の名句がドイツ語で書かれており、それは現代の学生気質とは全く違う雰囲気でした。それだけ昔の学生は知識欲が旺盛で向学心に富んでおりました。戦後の一時期ですがドイツの文豪であるヘルマン・ヘッセは森と湖のロマン派の作家として人気があり、ヘッセの翻訳は中高生の間で数多く読まれました。良い作品に飢えていた時代のことです。
 南ドイツにあるシュヴァルツヴァルト(黒い森)の小村カルフでヘッセは生を受けました。カルフは直立する緑の針葉樹、モミの木、黒い森林でおおわれた静かで美しい森の地方でした。
秋の陽に緑艶めくモミの嬉々
 ヘッセはラテン語学校、ギムナージウムなど学校を逃げ出してから書店の店員として生計を立てました。このとき真面目に働いてゲーテを師と仰ぎ作品を多読しましたが、後日に小論「ゲーテへの感謝」を捧げています。文体論学者のルートヴィヒ・ライナースはよい文章を書くためには優れた作家を読むことを勧め、20世紀を代表するドイツの作家としてヘッセを筆頭に挙げております。それだけにヘッセの流れるような文体は美しく、翻訳で言葉を置き換えただけでは表せないようです。ヘッセの出世作となった長編「郷愁」で恋人エリーザベトに美しい雲の詩を捧げましたが叶わぬ恋でした。「青春はうるはし」では異郷で働くヘルマンがモミの森の美しい故郷に休暇で帰省します。最後の日に彼は妹ロッテ、その友人の心優しいアナと夕日の美しいモミの森を散策します。告白することもできず、小川で涙を拭ったヘルマンは若い女性二人に駅まで見送られて別れを告げます、折から弟が打ち上げてくれた花火が夕空に大きな弧を描いて静かに消えていきます。夕陽の沈むモミの森はこの上なき美しさです。
 注目したいのはヘッセの母国語はドイツ語で、彼は作家として自国語を練るためにかなりの努力をしていることです。ヘッセは後日にゲーテ賞、ノーベル文学賞と大きな賞を受けております。

 現代科学は物理学者ニュートンを中心に発展しました。ニュートンの特徴は自然の対象を細分化して個々に扱うことにあります。医学の医療分野、大学の学部・学科などがよい例です。これに対して詩人のゲーテとシラーが強く反対し、科学の総合性を強く主張して現在に至ります。二人は性格を異にする詩人ですが、科学論が一致したことで強い友情に結ばれて互いに尊敬し励まし合い終焉に至るまで大きな業績を残しました。科学者にはニュートンを支持する層が多く、ゲーテの思想はあまり尊重されません。ゲーテを擁護する数少ない科学者は不確定性原理で知られるハイゼンベルクで、ニュートン科学は「総合性に欠け、冷酷、悪魔的」と述べております。別な面でもハイゼンベルクは心の温かい物理学者でした。また英国の詩人キーツが詩のレイミアで自然の分割を嫌っております。夏目漱石がこのことを「文学論」で取り上げ愛弟子の寺田寅彦とともに賛同しております。作家漱石は英文学者、漢学者であり、
寅彦は物理学者で、よく知られた随筆家です。
8 ゲーテについて
 さてここからゲーテについて論じたいと思います。ゲーテが西欧文学の頂点に立つ詩人であることはよく知られており、自然科学の著作も非常に多いのです。西ヶ原にある東京ゲーテ記念館(粉川忠館長の創立)はゲーテに関する書籍の宝庫ですが、ゲーテ全集として最も定評のあるヴァイマル版143冊のうち14冊が自然科学に関するゲーテの著作です。その範囲は多岐にわたり色の科学、光学、植物、動物、医学、解剖、天文、化学、地質、岩石、鉱物などに広く及びます。ゲーテの文学作品、詩、小説などは63冊に収められますが、文学作品にも自然科学の要素が多いのでゲーテの読者には相応の理科の素養が必要とされます。
 その例ですが、ファウストたちがブロッケン山に登っていきますと黄金の鉱脈が見えてきます。折から深い霧が巻いてくると黄金が深紅に見えてくるので大騒ぎになります。ゲーテの色の科学によると次元の低い色である黄が陰りで覆われると次元の高い深紅へと見えが変わります。このことからもゲーテの色の科学の知識がないと読者は解読に戸惑います。
 ゲーテは特に詩の美しさでドイツ中に知られており、子供たちは小学校の頃から名詩を暗記しております。ドイツ語素人の私でも詩の品格と響きの美しさは前々から感じておりました。昔のことシューベルトの伝記映画があってシューベルトに思いを寄せる娘さんがシューベルトが作曲した歌曲は全てゲーテの詩だと思っていたほどです。現実にシューベルトは50を超えるゲーテの詩に作曲しております。
 詩人ゲーテはフランクフルトで生を受け、ライプツィヒとシュートラースブルグの大学で法律を学び、アウグスト公の招きに応じてワイマルに移住します。この地で生涯にわたり詩人、作家、自然科学者、政治家として様々な多彩な人生を送ります。ゲーテの作品として先ず挙げられるのはファウスト第1部と第2部、そして数多くの詩作です。ファウストは両部で12,111行に及ぶ詩の大成です。すべてが美しい韻を踏む詩なので通常の作家には考えられません。ゲーテは決して丈夫な体ではないようでしたが、名医のお陰で80歳を超えるまで長寿をしました。ファウストが完成したのは終焉の半年前でしたので人生で体験した殆どが折り込まれております。それこそ数々の恋愛から始めて交友から哲学のことギリシャ神話まで含まれます。物語としても面白く、多くの人生の教訓が語られます。以前は高等学校とか大学の教材に採用されて学生は苦しめられましたが、それだけに大きく育てられました。ファウストの翻訳も数多く出版されました。ゲーテに関しては辞書を引けば訳せるものではなく、理科の基礎知識とゲーテ特有の科学の知識も必要で、直感を重視したゲーテの根源現象(ウーァフェノメーン)までの理解などです。ゲーテは生まれたフランクフルトからライプツィヒへ留学して青春を謳歌しましたが、酒場のアウエルバハス・ケラーによく通いました。この酒場は今でもライプツィヒの中心にあり、医学生として留学した森鴎外もこの場所でファウストを翻訳することを決意しました。作家であるとともに医者として理系の人物であるだけに鴎外の翻訳は名訳として珍重されております。
 すでに20年以上前になりますがミュンヒェンのカマーシュピーレ劇場が初来日して日比谷の日生劇場でファウスト第1部を上演しました。本場で鍛えられた俳優だけにセリフも鮮明で見事な熱演でした。劇場も満席の盛会でしたが、まだドイツ演劇とかドイツ語が愛される時代のことでした。
 ファウストはゲーテの生涯にわたる経験を題材にしているので奥深く、多くの教訓に富みます。作品の最終部分は地上の現実と天国の幽遠さが交差しますが、歳を経てから主人公のファウストも世を去ることになります。ファウストの不滅の魂は神の慈悲によって悪魔から解脱されて多くの天使が見守るなかを豊かな心で天国へと昇天してまいります。 
   永遠に女性なるもの、
   我等を引きて往かしむ。
   Das Ewig-Weibliche
   Zieht uns hinan.
 これはファウスト最終行のゲーテの詩文、さらに原文を精読した森鴎外の訳文ですが、ここで永遠に女性なるもの、歌としては誤りではないようですが、内容は難解です。現実にゲーテには多くの恋人がありましたが、全てを満たすような女性はなかったようです。ファウストの求めた永遠の女性とは、読者の想像に委ねるしかありませんが、現実には愛し合いながらも定めにより苛酷な別れを強いられたグレートヒュエンとか、幼児を抱きしめる若い母親の純な心など考えられますが、これはさらに奥深い所にあるのかもしれません。つまりゲーテが生涯求めて止まなかった理想の愛の心の恋人であり、ゲーテ自身も優しく導かれて静かに神の国へ昇天したかったのでしょう。現実に声の出ないゲーテはワイマルの寝室で謎の文字を描いて世を去りました。ファウストとは実に奥深い作品なのです。
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