3. 伊藤長七、教育界を憂える
・ 「現代教育観」
1912年(明治45年)、「東京朝日新聞」の文化欄に連載され、後に「現代教育観」として上梓された論説の最終回の文章です。
「今後の教育界をいかにすべきか。今の教育界中、識見の非凡と、学徳の高遠と、もしくは意気の豪邁と、一片の熱誠と、その名、未だ世に知られずして、しかも邦家教育のため、顕々の誠を致す者、山沢の隅、広野のほとり、その数決して少なきにあらざるを信ず」
筆者 黒風白雨楼の教育界の現状を憂い、教育の重要性をうったえた論説は各方面で話題を呼びました。
 
・ 五中校長への抜擢へ
そして、それが高等師範学校付属中学の一介の教諭、伊藤長七の筆になることが分かり、長七は1919年(大正8年)に東京府立第五中学校の初代校長に抜擢されることになったのです。

1918年(大正7年)当時の東京府立のナンバー・スクールは一中から四中までで、1901年の制定以来 約20年間開設が途絶えていました。 ときの東京府知事 井上友一(1871‐1919) は新たな府立中学の開校を決定し、長七をその校長に大抜擢したのでした。
この抜擢には 後藤新平沢柳政太郎 も関与していると言われています。
 

後藤新平 (1857 - 1929) 後藤新平 と 伊藤長七
明治〜大正期の政治家。

1882年(明治15)、岐阜で刺客におそわれ負傷した板垣退助を治療。 内務省衛生局に勤務ののち、ドイツに留学して帰国後に衛生局長に就任。1898年(明治31)から児玉源太郎台湾総督のもとで民政局長(のち民政長官)をつとめ、1906年(明治39)まで台湾の植民地経営にあたった。
この間、新渡戸稲造を殖産局長に抜擢して各種の産業をおこし、島民の治安維持、台湾銀行の設立など多くの業績をあげ、その功により男爵となった。
1906年(明治39)に南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立され、初代総裁に就任。1908年(明治41)の第2次桂太郎内閣では逓信大臣兼鉄道院総裁に就任、以後は拓殖局総裁、内務大臣なども歴任。
1918年(大正7)には寺内正毅内閣の外務大臣となりシベリア出兵を推進、1920年(大正9)に東京市長に就任した。
在任中は都市問題にとりくみ、またソビエト代表ヨッフェを非公式にまねいて日ソ国交の回復もはかった。1923年(大正12)9月の関東大震災後に成立した第2次山本権兵衛内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁となり、大震災後の東京復興計画を立案する。

また、大正期に長野県各地で開催された夏期大学にも取り組み、1918年(大正6)から始まった「軽井沢夏期大学の総裁を務めている。
このときの事務局長が 伊藤長七である。
夏期大学は当時気鋭の学者を招き様々なテーマで講義をしてもらうもので、受講者は圧倒的に若者であった。長七は開校式の祝辞で「民衆のための大学、否、民衆が自ら創作するところの大学、というものを考えねばならない時代が到来した」と述べている。
これが 五中校長時代、長七は年十数回、東郷平八郎・後藤新平・沢柳政太郎・吉岡弥生ら超一流の人物を招き生徒に講演を聴かせたことにつながっていく。
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 「現代教育観」
東京朝日新聞に連載された
         「現代教育観」 最終号
1912年(明治45年)、歌人 太田水穂(1876‐1955)は、長七とは長野師範学校の同級生で生涯の親友である。
東京朝日新聞が教育問題について評論を求めていることを知った太田は、当時 東京師範附属中学の英語教諭だった伊藤長七に 執筆を勧める。
長七は「黒風白雨楼」のペンネームで「現代教育観」を48回にわたって寄稿。
教育界の現状を憂い、教育界の刷新を訴えた。

 長七の友人たち

(女性を除き) 左から岩波茂雄、太田水穂、矢島音次、伊藤長七、島木赤彦。
岩波茂雄:1881年長野に生まれる。大正・昭和期の出版人で、1913年に神田に岩波書店を開業。岩波の母と長七の伯母は仲がよく、年上の長七を兄のようにつきあう。
岩波をのぞいた3人は、長七の長野師範からの親友である。