85周年会の「まち歩き」記録
第41回 『 両国 と 忘年会 』 (討ち入りを偲んで)
(番外を含めた通算 第50回)

冬晴れの今日12月14日は、赤穂義士の吉良邸討入の日。 それにちなんで
「まち歩き」は両国をゴールと目指して、清澄庭園からスタートしました。

日 時 : 2013年12月14日(土) 大江戸線 または 半蔵門線 白川清澄、13時 集合
ルート : 清澄庭園 → 小名木川(深川萬年橋) → 八名川小学校・公園 → 千歳橋 → 両国小学校・公園(勝海舟生誕地) → 吉良邸跡=元禄市 → 回向院 → 旧安田庭園 → 慰霊祈念堂(横網町公園)
→ 忘年会会場=花の舞(旧両国駅駅舎跡)
参加者 : 途中参加者も含め27名。忘年会:29名
案内人 : 柴田さん、山崎さん ( 017 )

スタート
「清澄白河」A-3出口に集合。 川口さんは体調が悪く まち歩きは辞退というのに、資料を届けにわざわざ出向いてくれました。 例によってS氏は遅刻かなと話をしていましたが、確認したら集合時間を14時だと勘違いしていたとのこと! で、急遽途中参加に切替。
そんなこんなでようやく スタート。  最初は駅からすぐの「清澄庭園」。
清澄庭園
江東区にある美しい公園。 東京都指定名勝の回遊式林泉庭園。 
広さは81,091㎡で、六義園(87,809㎡)より小振り。 入園料は、一般150円の所を 満65歳以上 20名以上の団体扱いで50円 也。

元禄期の紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられる。 その後下総関宿藩 久世氏の下屋敷。 明治11年岩崎弥太郎が買取って造園、「深川親睦園」と命名。 二代目弥之助が隅田川の水を引き込み、「回遊式築山林泉庭園」として完成させる。
その後東京市に寄贈され、昭和7年に「清澄庭園」として開園。 池の畔に建つ「涼亭」は明治42年建築の数寄屋造りの建物。 「東京都選定歴史的建物」(平成17年選定)で、集会用に利用できるとのこと。

池が美しい。巨大な鯉が泳ぎ、水鳥が沢山いるのに驚きました。 
蒼鷺(アオサギ)に白鷺

Grey heron“蒼”はくすんだ青色のこと  ホシハジロ(雄)はお昼寝 鴎は日向ぼっこ

江東区文化財「石仏群」(富士山の麓)           芭蕉の「古池や…」の句碑
右:庚申塔、左:馬頭観音供養塔
中央:法印慶光供養塔(阿弥陀佛)
相撲部屋
さすが両国、相撲部屋が多い。
錣山部屋 : 時津風一門
2004年元関脇寺尾が創設
現役力士は小結「豊真将」
尾車部屋 : 二所ノ関一門
1987年元大関琴風が創設
現役力士は小結「豪風」
高田川部屋 : 二所ノ関一門
現在の師匠は、第9代高田川親方
           元関脇安芸乃島
深川稲荷神社
深川七福神の「布袋尊」
         【江東区清澄2-12-12】

そのほかの 深川七福神 は、
富岡八幡宮………恵比寿神
冬木弁天堂………弁財天
心行寺……………福禄寿
円珠院……………大黒天
龍光院……………毘沙門天
深川稲荷神社……布袋尊

萬年橋
小名木川にかかる「萬年橋」。 今も昔も橋は美しい!

新小名木川水門
小名木川を渡って八名川小学校へ。

新小名木川水門 : 径間 11m × 3連
高さ 7.8m、 昭和36年竣工。
「芭蕉そば」に「奥の細道うどん」 江東区芭蕉記念館
隅田川沿、松尾芭蕉ゆかりの「芭蕉庵」があった所に建つ、江東区芭蕉記念館。
通り過ぎただけで中には入りませんでした。

八名川公園と八名川小学校
関東大震災後の復興小学校として1927年10月着工、1928年12月竣工。
復興小学校とは : 1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興事業に当たり、東京市は不燃化構造とするため鉄筋コンクリート造とし公園を併設した。 帝都復興院理事・建築局長兼東京市建築局長の佐野利器(としかた)が推進したもので、その数は 117校に及んだ。
1906年(明治39年)開校。 小駒さんの奥様は、この八名川小学校で教鞭を取られていました。 八名川小学校をバックに 八名川公園にて集合写真を撮る。

撮影者も はいっています↑
学校の敷地内にある橋名板
左から「志ん於ほはし」(新大橋)
学校脇の八名川稲荷神社

懐かしいゴジラのポスター この辺に来ると
「元禄市」のポスターが
「ヤマザキパン」 ↑ の トマソン看板
(左側にビルが出来て 役に立たなくなった)
右の写真の、この看板みたいなものを 超芸術 「トマソン」と言うのだそうな。
トマソンは、元巨人軍だった 役立たずの助っ人。 そこから、「不動産に付着して(あたかも芸術のように)美しく保存された無用の長物」という定義となった。
千歳橋
千歳橋は竪川に架かる橋
千歳橋から 竪川と高速7号小松川線
両国公園へ
千歳橋を渡って 両国公園へ。

ここ両国公園は江戸の剣客男谷精一郎の屋敷跡で、勝海舟生誕の地です。

以前、赤坂の「まち歩き」で勝海舟の屋敷跡と臨終の地を見ているので、ちょっと感激でした。
勝海舟生誕の地
いよいよ本所松坂町吉良邸へ”討入”
吉良邸正門跡の看板 吉良邸前の通りは「元禄市」で大混雑
15:35に再集合として元禄市を自由散策。 ここでS氏他と合流。
吉良邸は2,250坪(8,400㎡)もあって、最初に見た清澄庭園の広さ以上。 吉良邸跡としての本所松坂町公園は 当時の1/86の広さしかない。
「討入蕎麦」なるものを啜る。 350円 本所松坂町公園の由来
吉良さんと大石さんが仲良く並んで
本所松坂町公園内の松坂稲荷大明神 みしるし洗いの井戸
吉良上野介義央(よしひさ) 従四位上近衛権少将
元禄15年12月15日(新暦では1703.1.31)没
    享年62歳(満61歳)
墓所 : 龍寶山萬昌院功運寺(中野区上高田)
     片岡山華蔵寺(愛知県西尾市)
吉良家家臣二十士の碑

    吉良家の戦死者17名、重傷者23名
と伝えられているのだが…。
元禄市で売られている「切腹最中」。
最中の皮が切れていて餡子が見える !
墨田区太鼓連盟による和太鼓奉納。
「義士祭」は港区泉岳寺をはじめ全国各地で行われているが、「吉良祭」と一緒に行われているのはここだけ。
両国方面へ
元禄市とお別れで両国方面へ。

両国小学校裏手の道端に駆逐艦不知火の錨
駆逐艦 不知火 : 陽炎型2番艦

明治32年(1938年)英国で進水
日露戦争で活躍。 排水量2,033t
昭和19年(1944年)レイテ沖海戦で米艦載機に
よって撃沈される。

両国小学校裏手道角に芥川龍之介の文学碑 吉良邸と背中合せに「時津風部屋」
時津風部屋:1941年「双葉山相撲道場」として設立
1945年に「時津風部屋」に改称。 現在の師匠は
  第16代時津風(元幕内時津海)
  現役力士は関脇豊ノ島、小結時天空
時津風部屋と道を挟んで反対側にある
「岡野接骨院」… なるほど!納得
京葉道路沿にある「本所松坂町」の碑
回向院
                回向院に入った所の「力塚」
両国回向院 : 諸宗山無縁寺 回向院
本所回向院とも言う。 浄土宗。

明歴3年(1657年)の大火、振袖火事の焼死者 10万8千人を幕命によって葬った「万人塚」が起源。

後に安政大地震をはじめ水死者や焼死者など横死の無縁仏も埋葬する。 あらゆる宗派だけでなく人・動物全ての生あるものを供養する。

天明元年(1781年)境内で勧進相撲が興業され大相撲の起源となった。
鼠小僧次郎吉の墓 (俗名:中村次郎吉) 「鼠小僧の墓石を持っていると博打で勝てる」という俗信から、現在墓石はすっかり砕かれてしまっている。 山崎さん何の博打をするのかな…。
生あるもの全てを供養するので、ペットの供養塔が沢山あった。 右奥の大きい塔が「犬の供養塔」、右手前の小さな塔が「猫の供養塔」。
ちなみに奥のマンション「両国シティコア」の建っている所が、勧進相撲の興業された場所とのこと。

両国駅への道には力士像と手形
笠井さんの手より遥かに大きい
ここが旧両国駅のコンコースを利用した飲食店街 「大江戸八百八町花の舞」、今夜の忘年会会場。
一旦通り過ぎて「旧安田庭園」に向かう。

旧安田庭園
旧安田庭園に 4時に入る。 16:30 閉園なので反対側出口に集合とする。

旧安田庭園は、笠間藩主本庄氏により元禄年間に築造。 隅田川の水を導いた汐入回遊式庭園。 明治維新後安田善次郎所有となり、氏没後の 大正11年(1922年)、東京市に寄贈された。 桜も美しい由。
池中の飛石は汐入時には水没する
小休止 何かの撮影中だった モデルか学生か?
望遠レンズで 失礼
旧安田庭園内にある「両国公会堂」は、安田財閥の寄付を基に建設され大正15年(1926年)に竣工。

鉄筋コンクリート造4階建、円形ホールを中心にした劇場建築。 現在は老朽化により使用を禁止されている。 

東京建築遺産。
横網町公園
 念のため、「よこあみ」であって 横綱
 ではありません。

 以下、Wikipedia より
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが、1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。 
工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。 直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。 避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。 結果、横網町公園に避難した人だけで3万8000人が犠牲になったという。
震災後、その3万8000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。 やがて東京の復興が進む中、建築家・伊東忠太の設計の元、当公園に関東大震災による遭難死者約58000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、1930年に完成。 数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。 また横網町公園自体も1930年9月1日に開園した。 翌1931年には当公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。

しかし、1945年、東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。 特に3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。 当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。 その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し「震災記念堂」に合祀されることになった。 そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。 
他には関東大震災の際に、朝鮮系の住民が震災に乗じて略奪や襲撃を起こしているという情報が流れたため、一部の朝鮮人(朝鮮人と間違えられた日本人も)が混乱下の避難民により殺害され、それを追悼する石碑や、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがあり、横網町公園は関東大震災と第二次世界大戦のメモリアルパークとしての要素が強い公園となっている。
      柴田さんから伊藤忠太の説明

伊藤忠太 : 慶応3年~昭和29年
明治から昭和期の 建築家・建築史家
米沢市出身、帝国大学工科大学卒業
明治35年から3年間、中国・インド・トルコに留学し、西洋建築とは違った 独特の建築様式を生み出した。 昭和9年に築地本願寺を設計した。 その他作品には、「豊国廟」「弥彦神社」「大倉集古館」「湯島聖堂」など多数。 神社仏閣が多い。
ちなみに、「Architecture」は「造家」と訳されていたがこれを「建築」と 提唱したのは伊藤忠太である。

ここで本日の「まち歩き」は終了です。 いざ、忘年会会場へ出発。

<「大江戸八百八町 花の舞」で忘年会>
土俵際の特等席 ちゃんこ料理で大いに盛り上りました
皆ご機嫌でしたが 代表してお二人に 土俵では相撲甚句も披露される

<2次会はカラオケに>
忘年会はお開きになりましたが、かなりの方々が二次会の「カラオケ」に参加となりました。
幹事柴田さんの段取よい事前予約で、「カラオケの鉄人両国駅前店」へ!
梅島さんはカラオケ店でお色直し この報告書作成者の特権で両手に花
これで本日のイベントは全て終了、お疲れ様でした。 3次会に進んだ強者も結構いたようです。 では、来年も宜しくお願い致します。
 

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