85周年会の「まち歩き」記録
第 46 回 (番外を含めた通算 第 56 回)
川の跡をたどる - その3
豊島区 ・文京区 谷端川 ・小石川の跡 と コンサート(六本木)

案内人 019 高橋さんの「川の跡シリーズ」 第3回。

大雨ごとに氾濫を繰り返していたため、昭和の早い時期に暗渠化された「谷端川」。 後半は小石川高校の名称の由来でもある「小石川」と名を変える。 旧小石川高校の学区だった第四学区内を歩くことも、85周年会「まち歩き」のテーマのひとつ。 また 10月まち歩きの「打ち上げ」は、016 冨樫さんのジャズコンサートを聴くのがお決まりとなっている。

日 時 : 2014年10月25日(土) 大塚駅 改札 13:00 集合
ルート : 大塚 → 三業通り → 東福寺 → 猫叉橋 → 簸川神社 ・氷川坂 → 播磨坂 ・極楽水跡 → 吹上坂 ・宗慶寺 → 善仁寺 → 裏柳橋跡 → 堀坂 → 文京区役所 → 丸ノ内線 架道橋 → ドームシティ → 神田川
まち歩きはここまで。 → 地下鉄で六本木に移動 → サテンドール
参加者 : 9名 (途中からの参加者を含む)、  打ち上げ : 14名
案内人 : 高橋俊一さん ( 019E )
                本日の資料は 1916年(大正5年)測量の、1万分の1地図。
集合 : 山手線 大塚駅
たまたま「大塚商人まつり」というイベント開催中で、自由通路内でも即売会なども開かれて大混雑中。
先に着いた人たちは 全員が揃うまであちこち見物。

きょうは いつも遅れてくる人が早々と集まった代わりに、一人が「時間を間違えた!」とかで、7名で出発する。
都電荒川線
大塚といえば、都内最後の都電が走っている場所。 案内人から1916年(大正5年)の地図が配られ、見慣れた大塚駅北口で、旧王子電気軌道と谷端川の説明を受ける。 大塚駅前のビルの1階に滝不動がある。 こんな所に 滝?と思うが、これも川があった名残。 今でも大切に祀られている。 
大正5年時点では大塚が終点で、早稲田方面の路線とは繋がっていなかった。 地図を見るとココの線路は真っ直ぐで、緑のガードが終点だった、と言われると納得する。 
その後山手線の内側の 大塚-鬼子母神間と繋がり、別途 大塚-上野広小路の市電もあったために、大塚はおおいに賑わって、駅前には白木屋出張所、天賞堂、資生堂、高島屋10銭ストアなどもあったという。 1916年(大正5年)の地図を見ると、池袋と大塚の市街化の違いが際立っていたのがわかる。
三業通り
谷端川は山手線をく ぐり、現在の「三業通り」にはいっていく。 今回は、昔 橋が架かっていた場所やそれに続く坂道に注目して歩くという。 そういわれれば、川は一番低い所を流れていたはずで、左右は たとえ緩くても斜面。 ブラタモリの世界だ。 ここで遅れていた人が合流。
過去のまち歩きで何度か歩いたことのある大塚三業通り。 確かに、周囲より低い道で妙に曲がっており、川だったと言われればなるほど。 今でもゲリラ豪雨時には水が出ることもあるとのこと。 姿見橋・見返橋といかにも三業地に相応しい名前の橋があったそうだ。
熊野窪橋
この交差点部分には当時「熊野窪橋」が架かっていた。 その先の道路が手前より広い。 地図を見るとここだけ川の左側に道があった。 それが今に反映されているという説明。 
三業組合は最近なくなってしまったが、この先に立派な稽古舞台を備えた「見番」があった。 子供の頃、この付近を歩いてはいけないと言われていた という人が約1名。
左手奥に「浅見坂」という坂があるが、名前の由来となったその浅見家の子孫は小石川OBという話で、江戸時代の村絵図に名前が載っているそうだ。
東福寺
真言宗豊山派。 創建年はわからないが、1562年(永禄5年)に良賢という僧が中興したと伝えられる。 1691年(元禄4年)に当地へ移った。 このため江戸時代中期から寺への道があり、中山道方向と 巣鴨村辻町(現在の新大塚駅)に通じていた。
階段横に「疫牛供養塔」があった。なぜ牛かというと、昔は周辺が牧場だったとのこと。
信じがたいが地図に証拠が残っている。
山田耕筰の碑
巣鴨小学校の前の道を少し右に入った教会に、北原白秋作詞の「からたちの花 発祥の地」という碑があった。 幼い時に父を亡くした山田耕筰は、川向こうの自営館に預けられて育ったという。 辛い時に涙した、そのカラタチが石碑の周囲に植えられていた。
さいとう坂
浅見坂もそうだが、市街化が進んだ時に自分の敷地を提供して新たな道(坂)を作った場合には、坂名に提供者の名前が付けられることがある。 さいとう坂は1962年(昭和37年)頃に通された新しい坂だが、石の銘板が残っている珍しいケースだ。


鴻池が分譲したという初期の住宅地で文京区となる。 これ以降、谷端川の名は小石川と呼ばれていた。 川底に東京礫層の砂利が露出していたためで、地名「小石川」の起こりであり、小石川高校の名の由来も、おお元はこの川に由来する。
   川名「小石川」 → 地名「小石川」 ← 「小石川区」 ← 「小石川高校」 
つまり 今回のまち歩きは、小石川高校の名のルーツを歩くものだったわけだ。

旧丸山町で、古いアパートの横の階段を上って高台に出た。 大した眺めではないが、低い所ばかりを歩いていたので気持ちがよい。 川の跡を歩きながら 時々周囲の坂をアップダウンするので、歩数以上に疲れる。
猫股橋
一見行き止まりに見えた小公園を抜けて、不忍通りに出た。
不忍通りが通されたのは 1918 年(大正7年)頃で、その時にコンクリートの橋に架け替えられたが、わずか16 ・7年で川が暗渠化されてしまった。 記念として残されている親柱は、橋の工事責任者が自宅に保管してあったものだそうだ。
区の説明板には、橋名について複数の由来が有り、
①:大昔は木の根の股で橋を架けたので「根子股橋」と呼ばれた。
②:昔この辺りに狸がいて、夜な夜な赤い手拭いをかぶって踊るという話しがあった。
 ある夕暮れ時、大塚あたりの道心者(少年僧)が、食事に招かれての帰りに橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸か、とあわてて逃げて千川にはまった。 そこからこの橋を「猫貍橋」と呼ぶようになった。 猫貍とは妖怪の一種である。
                                               『続江戸砂子』
過去の橋名は、先の小公園横の公衆便所に 「猫叉橋際公衆便所」として残されている。
簸川神社
簸川神社は植物園の位置にあったのだが、館林藩主だった徳川綱吉が将軍になった後、1699年(元禄12年)に現在の位置に遷座させられた。 藩主の下屋敷 通称白山御殿はもっと早くから造られていたので、拡張のためだったのかもしれない。
階段の下右手に立派な 「千川改修記念碑」が建てられている。 建立は暗渠化が竣工した年 1934年(昭和9年)の9月。 千川の名は小石川の別名で、源流よりも高い位置を通っていた「千川上水」から予水が分けられたためだ。 それまでは日照りの時には水がなかったが、千川上水と繋がって以降は稲作が可能になって、付近は氷川たんぼと呼ばれていた。
本殿は崖の上にあり、急な階段をのぼった。
極楽水
今や花見の名所となった「播磨坂」。 その名の由来である 常陸守府中藩 松平播磨守の敷地内にあった井戸 あるいは湧き水に付けられた名水だ。 そこは元はといえば「宗慶寺」の敷地で、簸川神社と同じように 屋敷造営のために移転させられ、近年になって播磨坂(環状3号線の一部)が通されて、再度の移転。 井戸も埋め立てられてしまった。
播磨守の敷地には高層マンションが建てられ、公開空地内に極楽水が再現されている。

宗慶寺

左側 極楽水
善仁寺のつるべ井戸
宗慶寺とは対照的に江戸時代から移転することなく、参道にクスの大木が残る善仁寺には、今でも滑車で汲み上げる立派な井戸が残っている。 普段と違って少人数のまち歩きだったので、静かな境内に見物気分でのお参りも支障がなかった。

この後 小石川三丁目の商店街までは、ほぼ小石川に沿って「千川通り」(別名 共同印刷通り)が通された。 この辺りまで来ると川跡の痕跡はほとんどなく、淡々と進む。

すずらん通りの先には善光寺坂と善光寺、慈眼院、六角坂などの見所があるのだが、時間の関係で飛ばすことになり、 源覚寺(こんにゃく閻魔)裏の、「堀坂」を見に行く。
堀 坂
かなり急な坂で、電信柱に「坂道 ご注意下さい」 との看板が立っている。 坂道なのはわかってますよ、と言いたくなる。 
右側にはやたらと古い 錆びた鉄製の手摺りが残されていた。 保存したわけではなくて、取り除く手間を省いただけのようだ。   坂名の由来について 教育委員会の説明は、
この場所の北側に 旗本堀家の分家 利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。 また、当地の名主 鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。 「堀坂」という名称は、1818~30年(文政)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。
となっている。

坂の上の方にその石碑があり、側面には建立の年号らしき文字が彫られているのだが、崩した字なので読めなかった。
200年前のものなのか?
文京区役所 展望台
春日通りに出ると 向かい側に「礫川公園」がある。 れきせん も小石川と同義だ。

地図によると、昔の川は 現在の文京区役所の敷地内を流れていた。 その区役所の展望台に上る。 無料ということもあり、なかなかの賑わいだ。 ちょうど日没時で、沈む夕日側に富士山のシルエットを見ることができた。 皆であのビルは何? と、いつまでも飽きないが、暗くなってしまうので下りることにする。

         ↑富士山は黒いビルの横。写真ではわかりにくい
丸ノ内線 架道橋
文京区役所も後楽園遊園地も、明治・大正を通じて、陸軍の「東京砲兵工廠」だった。 小石川はその中央を流れていたため、この部分は少なくとも明治末には暗渠化されていた。 
丸ノ内線の 池袋-お茶の水間 が開通したのは、1954年(昭和29年)1月で、当然その暗渠を跨ぐ必要があり、川はないのに 架道橋(ガード)が架けられた。 

さらに下流側には後楽園の「ラクーア」ビルが建っている。 これも暗渠を跨いだ構造となっているそうだ。
暗くなってきて写真を撮れなかったので、案内人が以前に撮影したデータをお借りした。
後楽園遊園地
子供の頃に連れて行ってもらった後楽園遊園地(現在は東京ドームシティ)、その下に川(暗渠)が流れていたと聞いて、改めてびっくり。

確かに川をまたぐようにジェットコースターが作られている。 そして、噴水や池の位置も川跡に一致していて、建物は建っていない。
この写真も、案内人提供
神田川へ (現在の谷端川の河口)
最後に、水道橋駅の手前で神田川にそそぐ「谷端川終点」を見て、本日のまちあるきはおしまい。
神田川は江戸時代初期に掘られた「人工の川」。 ということは それ以前は、水道橋からほぼ白山通り沿いに、神田神保町、一ツ橋などを流れて、日比谷の入り江に注いでいた。 神田小川町の地名があるのはそのためだと聞いて、またもや「そうだったのか!」。
注いでいるのは「雨水」だけなので、水は流れていなかった。 旧地名 市兵衛河岸、河口の凹みに船着き場が作られている。 右の写真は神田川の下流を見たところで、写っているのは水道橋。

<懇親会>
今回のまち歩きは、016 の冨樫さんの ジャズ歌手開始 9周年記念コンサートの日に合わせて開催された。 三田線水道橋から日比谷乗り換えで、会場の六本木まで地下鉄で移動。
サテンドールのコンサート
小石川時代に冨樫さんが活動していた「野球部」のOBも大挙来ていて、会場は満席状態。 コンサートだけ参加のまち歩きメンバーも加わって、ワインを楽しみながら 歌と演奏を堪能。 最後まで懇親を深めた。 
 

  まち歩き 実施記録 に戻る  
  Copyright Shiyu alumini association All Rights Reserved