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85周年会の「まち歩き」記録 |
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第43回 『 鎌倉 まち歩き 』 (鎌倉幕府の歴史を探して) |
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(番外を含めた通算 第53回) |
今回は、有名寺社 の見学は最小限にとどめ、鎌倉幕府の在り方や興亡に影響を与えた場所を、何カ所か歩こうというものでした 。
案内人は、「実際に歩く過程で、端折ったり 加えたりする場所があるかもしれません」とことわりながらスタートしました。 |
日 時 : 2014年5月17日(土) 鎌倉駅 江ノ電側、13時 集合 |
ルート : |
鎌倉駅 → 鶴ヶ岡八幡宮 → 大蔵幕府跡 →頼朝墓 →宝戒寺 → 若宮大路幕府跡 → 宇都宮辻子(ずし)幕府跡 → 妙隆寺 → 東勝寺跡・腹切りやぐら
→ 日蓮上人 辻説法跡 → 大巧寺(だいぎょうじ) → 鎌倉駅 →(江ノ電 ) → 長谷駅 → 長谷寺 懇親会 : ドイツレストランの「シー キャッスル」、 由比ヶ浜駅 か 長谷 (江ノ電 )で 解散
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参加者 : 20名 案内人 : 鷹取 宏さん (公式の案内人) 、伊賀さん、山崎さん ( 017 A) |
スタート |
今回は鎌倉という場所もあってか、少 し早めに来て、おいしい昼食をとる人が多くいた。
それではスタート。 なお 報告の多くは、案内人の鷹取さんの資料から引用 しています。 |
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鶴ヶ岡八幡宮へ |
ガードをく ぐって鶴ヶ丘八幡宮に向かう。 源頼朝が、妻政子の安産を祈願して若宮大路を整備した。 以前は海まで伸びていたそうだが、横須賀線を建設するために現在のようなところで切れてしまっている。 |
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案内人の鷹取氏が「段蔓」や「置石」の説明を熱弁。
良く晴れていて 暑くなりそう。
源平池の説明 もしてくれていたが、離れていたので聞こえなかった。 新緑に囲まれた池はよかった。 |
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鶴ヶ丘八幡宮は 1191年の焼失後すぐに再建され、若宮(下宮)と本宮(上宮)の 上下両宮となる。 本日は日も良いのか、神前での結婚式が行われていた。 階段を昇って
まず本宮にお参り。 降って若宮も見学。 なお、現在の本宮と若宮は江戸時代に造営されたもの。 |
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広大な敷地の横浜国大付属小学校 ・中学校のそばを通って、大蔵幕府跡と 頼朝墓に行く。
この辺は雪ノ下という地名。 昔はユキノシタがたくさん咲いてのかも。
1180年から 1225までの 46年間、幕府の所在地。 頼朝、頼家、実朝の三代、尼将軍 北条政子の時代。 |
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石段の下、左側が法華堂跡。
1247年 法治合戦で、5代執権北条時頼に敗れた三浦秦村の一族 500余人が、この地で自害した。
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石段を登っていく。 源頼朝墓の石塔は、島津重豪が 1779年に建立。
アジサイの葉のみどりが 陽に光っている。 ミニクーパが駐車している。 懐かしい車だ。 |
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北条氏の執権屋敷跡。
北条氏の菩提を弔うため、後醍醐天皇の命により足利尊氏が建立。 屋根瓦が立派だ。
無患子(ムクロジ)の大きな木が一本、空に青葉を覆っている。 この種子は羽根つきの羽根の丸い部分に使われるという。 |
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無患子のお守りを購入する人。 |
「萩の寺」でも有名だが、萩は まだ 青々とした葉が一杯。 八角形の踏み石が並ぶ。 |
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1236年から 1333 年、幕府滅亡までの 98 年間の、幕府の所在地。
この辺の家々は草花を大切にしているようで、庭や路地の花々に 誰もが分かるように名札を付けてくれている。 雪の下小さな花が咲いていた。 |
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宇都宮辻子(ずし) 幕府跡 |
1225 年から 1236年、 政子没後、3代執権北条泰時、 4代将軍藤原頼経を擁し、この地を幕府にすること 11年。 現在は 小さな宇都宮稲荷大明神がある。 |
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妙隆寺 |
鎌倉江の島七福神一つで「寿老人」 を祀る。
拷問で焼けた鍋をかぶせられたので、鍋かむりで知られる日親上人ゆかりの寺で、御家人 千葉常胤の子孫、千葉胤貞の別邸「千葉屋敷」跡に建つ。 |
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丸山定夫の碑がある。 「新劇団十郎」とも呼ばれた。 同時期の榎本健一(エノケン)、徳川夢声らと知り合う。 榎本は丸山の演技を見て「とんでもないクサイ芝居するので新劇に行ったほうがいいよ」と説得し、これが丸山の新劇に興味を持 つきっかけとなた。 原爆症による高熱と痙攣、吐血、下痢に悩まされて死去した。 44 歳であった。
よく読み、よく歌い、よく飲み、よく恋し、友を愛し、世話を見、純情で敏感で柔軟な心情を以て、知る人すべてから愛された。 と碑には記されていた。 70%は我々にも当てまるか? |
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途中の東勝寺橋は 1924年に建造され たアーチ構造の橋。 V字型の谷間に安定感のアーチが人気だという。 そして、野原となっている東勝寺跡がある。 |
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1333 年 5月、新田義貞が鎌倉に攻め入り、北条高時ら一族はこの地東勝寺まで退き、高時一族870人余りが腹を切り、また刺し違えて自害した。
その「腹切りやぐら」がすぐ先にある。 どのよ うなやぐらかと思っていたが、小さな洞穴だ。 高時切腹の場所と伝承される。 やぐらとは、鎌倉時代から室町時代にかけて、鎌倉で納骨や供養に使われた横穴のこと。 |
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いくつかの塔婆に 高倉健の名前が書かれている。 ウエブで調べると、高倉 健は北条家の子孫ようだ。 映画化やテレビで関連した演技をしたからかななどと話し合ったが、違っていた。 健さんが腹切りやぐらに塔婆を供えるのは、ご先祖様の供養のようだ。 |
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大巧寺(だいぎょうじ) |
日蓮上人が辻説法した跡を見たあと、大功寺へ。
安産の神様。 おんめさま。 庭の多くの花が 、来た人を楽しませるようだ。 小さな花にまで名前が示されている。 ただし、「とっていいのは写真だけ」。 |
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鎌倉駅 → (江ノ電 ) →長谷駅 |
江ノ電で移動。 よく晴れて土曜休日なので大混雑。 一台待つしかなかった。
長谷駅に向かう。 |
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なぜか記念写真 |
長谷寺 |
長谷観音は 創建 736 年(天平8)。 本尊は十一面観音像 。一木の楠か? 像高 9.18m の大きな像だった。 写真撮影は禁止。 ここからの
海の眺望は素晴らしかった。 |
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大空に鯉が舞っていた |
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和み地蔵はかわいらしく、子供が一緒に写真撮ってもらっている。
弁天窟を腰折り曲げて進んでいく。 弁財天などが壁面に彫られている。
紫陽花寺と言われているが、紫陽花はもう少し昇って行ったところにあったようだ。 見た人と 見なかった人がいる。
寺の外で集合待ち。 大きな古木がある。 椨(たぶ)の木と書いてある。 |
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由比ヶ浜のほうに歩いていく。
小さなドイツレストランの「シーキャッスル」 が見えた。
太っちょで愛嬌のあるドイツ女性が飲み物や食べを受け付てくれる。 彼女のペースで我々お客も うまく使われているようだ。
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下調べに行った時の 松木さんの短歌。
開店後五十七年とふレストラン ドイツのマダムはにこりともせず |
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いつものように よく飲んでしまったようで、ホワイトワインの冷えているものがなくなってしまった。 由比ヶ浜駅 か 長谷駅 (江ノ電) で解散。
後日談では、まだ飲みたらなかった人たちがいて、近くで楽しんだようです。 |
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