島崎藤村

藤村は11歳で上京、泰明小学校から三田英学校、共立学校などを経て明治学院に進みました。卒業すると英語などの教師となりいくつかの学校に勤めましたが、その間、泰明小学校時代の級友北村透谷らの『文学界』の仲間に加わり、浪漫派詩人として人気を集めました。『若菜集』は東北学院時代の作品です。次いで明治32年小諸義塾の教師になり、『破戒』を書くため上京する38年までそこにいました。

藤村関連 「破戒」の土屋銀之助のモデル
藤村が小説に転じて書いた『破戒』に主人公の親友として登場する土屋銀之助のモデルは長七であるとされています。諏訪湖畔の生まれ、五分刈頭、赤ら顔、腕まくりして快活に談じ、笑う、正直で友達思い。こんな熱血漢として描かれた銀之助です。五中の朝礼で生徒を前に話しながら感極まると泣き出したという長七の若いころの姿とみるとうなずけます。銀之助は東京農科学校、東大農学部となるところですが、そこへ進むため小諸を去るのですが、これは小諸を一年で去って東京高等師範に進む長七と行動が重なります。

藤村関連 神津 猛
『破戒』には巻頭に献辞があります。「この書が世に出づるに至りたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。労作終わるの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまえにささぐ」というものです。
この神津猛という方は、信濃の名家の12代目で、五中13回卒、神津康雄さんの御父君です。藤村との関わりは神津さんの近著『随処に主となる』に詳しく書かれています。
神津猛は11歳で家督を継ぎ、慶応義塾在学中、福沢諭吉に品川の古墳に連れて行かれ、土器の発掘の手伝いをした体験を契機に考古学に傾注、信濃に戻ると近辺の古墳を発掘、膨大な土器や玉、矢じり、石斧などを発掘しました。ちなみに、これらはいま、長七の資料が預けられている長野県立歴史館におさめられています。
藤村と知り合うのは、塾長の木村熊二に招かれ小諸義塾を訪れたときです。熊二は明治女学校の創立者で藤村も一時そこの教師でした。小諸義塾設立にあたり、その塾長として招かれた熊二は藤村を呼び寄せました。そして、藤村と猛を引き合わせたのです。
藤村が明治学院に月給60円で来てくれという誘いを受けたとき、義塾での月給は25円でした。藤村は小諸を離れる決心をしたのですが、同僚が留任運動を始めます。自分たちの月給の二割削減していい、藤村を残してくれ…と。それを漏れ聞いた猛は熊二に義塾への寄付を申し出ます。感激した藤村は上京を思いとどまり、猛との交友は深まりました。
小説に転じ、全精力を注ぐため、いよいよ上京しようとするとき、藤村は猛に400円の借金を申し入れます。名家の当主とはいえ、右から左へと出せる額ではありませんから、何回かに分けて送りました。
明治39年『破戒』は完成します。初めは自費出版でした。高い評価をうけ、藤村は自然主義文学の代表者の一人とされるようになったのです。猛のところへ『破戒』の草稿や執筆した机などが、送られています。神津康雄さんは浪人時代、その机で勉強したそうです。