<スタート> |
写真を見ながら楽しんでください。 |
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護国寺山門 |
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13:00集合。山門近くでの集合となる。今日も良く晴れて暑い。頑張りましょう。
山門から江戸川橋に向けてまっすぐ道路が伸びている。江戸時代はここが護国寺への参道だったのだろうか。ゆっくりとした登り道だったようだ。
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山門、仁王門の仏像の写真を撮る。正面の両脇には金剛力士像(右が阿形(口を開いている)、左が吽形(口を閉じている))が安置されている。
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背面の両脇には、二天像(右側は増長天、左側は広目天)が安置され、ともに鬼を踏みつけている。
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護国寺境内 |
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今回は小野寺さんのご厚意により、護国寺境内の案内を寺僧にお願いできました。最初は若手の寺僧の案内が始まる。
中門(不老門)への階段の登り口には、両側に手水舎がある。元禄十年(1697年)頃に桂昌院の寄進で鋳造された手洗水盤が湧水(今は水道水を使用している)を自動的に流して、手柄杓を使用する必要がない優れものだったようだ。戦時中にもどうにか金属調達から逃れることができたようだ。
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不老門から入って行く。 不老門を過ぎたところに彼岸花が咲いていた。
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左手に二層の多宝塔がある。これは昭和13年に建立されたもの。
そばに建っている月光殿は、今はお茶会で利用されていると言う。この月光殿は、近江三井寺の客殿を昭和3年に移築したもので、桃山時代の書院様式の建物。残念だが建物は写っていない。
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護国寺観音堂 |
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観音堂(本堂)に靴を脱いで入る。 堂内は撮影禁止。
広い。500畳あるそうだ。ご本尊の如意輪観世音菩薩の前の畳に、直接座ったり、いすに座ったりして、貫録のある別の高僧の話を聞く。
53本の柱が本堂を支えている。この柱はみかんで財を成した紀伊国屋文左衛門からの寄進だそうだ。330年もの間、この柱たちはお経を聞いてきているので、霊験あらたか、とてもご利益のある柱で、抱きしめると良いと寺僧が説明。
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・ 願懸けに太き柱を抱きしめよと 真顔に寺僧の語る護国寺 |
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33のそれぞれの仏像には、桂昌院(お玉の方)の髪の毛が入れられているそうだ。桂昌院、お玉の方は、貧しい八百屋の娘から将軍の母親になると言う「玉の輿(この玉はお玉さんのことのようだ)」に乗るようなシンデレラ物語と同じ幸運一杯の人だ。
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正面には五代将軍綱吉による「悉地院」の扁額が飾られている。たたみ一畳の大きさだ。両側には大きな絵馬が飾られている。天井にも大きな絵が飾られている。12畳の広さに2枚の天女や龍の絵が飾られている。当初はきらびやかなものだったのだろう。
お寺などの正式な呼び方は、~山~院~寺だそうで、ここは「神齢山 悉地院 大聖護國寺」となります。
原田直次郎作の龍に乗る菩薩「騎龍観音」が飾られている。これはコピー。本物は東京国立近代美術館にあるそうだ。
寺僧の案内に従って弁財天等の見学もできた。御賓頭盧様のお膝と心臓を撫でて、今回のまち歩きを完歩した人もいました。
最後に寺僧のリードで、皆で「佛説魔訶般若波羅蜜多心経・・・・」を大きな声を出して唱えました。
なお、お礼として「百年の孤独」をお二方にそれぞれ贈らせていただきました。 |
(Webから) |
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<解説>
桂昌院は、江戸時代の女性。江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。名は玉。
京都堀川の八百屋仁右衛門の次女として生まれ、その名をお玉といいました。成長したお玉は徳川家光の愛妾お万の方と二条家につながりがあったため、三代将軍家光の側妾お万の方の侍女となるため江戸へ下りました。18歳のお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになりました。20歳になると、徳松(後の五代将軍綱吉)を安産します。26歳の時、家光の死に際し、落飾して(尼となって)桂昌院と称するようになり、綱吉と共に江戸藩邸に住むことになりました。
桂昌院54歳の時、我が子綱吉が五代将軍に就任。江戸城中三之丸に居を移しました。そのことから三之丸様と呼ばれ、大奥での力は絶大となり、76歳の時、従一位という最高の位階に叙せられることにもなりました。
1705年(宝永二年)6月22日、79歳、江戸城中で亡くなられます。 (年齢は数え年のようです。)
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護国寺境内および墓地 |
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護国寺のイチョウの木には、たわわとなった銀杏が垂れ下がっていた。
早大創立者大隈重信の墓の見学をはじめとして、三条実美、山県有朋、団琢磨、大山倍達などのお墓も探しながら見学。
ジョサイア・コンドルという建築家のお墓も見つける。ロンドン生まれで、工部大学校教授として学生を指導する傍ら、鹿鳴館、ニコライ聖堂、岩崎邸や古河邸など多くの建築物を作った。日本人妻のクメ夫人もここにともに眠っている。
くちなしの白い花が一輪、遅咲きで残暑の日中に残っていた。
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雑司ヶ谷霊園 |
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霊園の周りには多くの古い家の花屋が残っている。
途中白い花を見つける。ジンジャーリリーで、夜に咲く花とのこと。良い匂いがする。これから咲く花、咲き終わった花が一緒だ。
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竹久夢路、小泉八雲、永井荷風他のお墓を見ながら、最後に我らの初代校長・伊藤長七の墓(下、右側の写真)参りをする。
伊藤長七の墓は、1種2号5側にあり、都電の雑司ヶ谷駅に近いところにある。 |
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都電荒川線にて雑司ヶ谷より向原へ |
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昔の都電の形をした電車に乗る。 車中には、ようこそ「都電ハロウィン号」への案内板とかぼちゃの飾り物で一杯でした。少し違和を感じたが、まーよいか。
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巣鴨プリズン跡 |
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向原駅から旧大塚台小学校(現 朋友小学校)の前を通り、造幣局を過ぎ、サンシャイン60ビルの中を通り、豊島区立東池袋中央公園まで歩く。このあたりは昔、巣鴨プリズンがあったところだ。現在はサンシャインシティとなっていて、巣鴨プリズンの処刑台跡地には「平和の碑:永久平和を願って」の慰霊碑が昭和53年6月に建てられている。
碑の裏には「・・・・一部の刑がここの地で執行された・・・」とぼかして刻まれているが、戦犯が絞首刑や銃殺刑に処された所。遺体は秘密裏に横浜市郊外で火葬にされていたそうだ。(上坂冬子著「貝になった男~直江津捕虜収容所事件~」が参考だそうです。)
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・ 薄暗き巣鴨プリズンの刑場跡石碑の前に菊花の置かる
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大塚駅方向へ移動 |
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大塚駅方向へ移動開始。
東池袋中央公園のそばにはK-BOOKSと言う名前のビルがいくつかかたまっている。K-BOOKSコスプレ館もあり、入って見学する。エヴァンゲリオンなどのアニメのコスプレ衣装が沢山売られている。K-BOOKSをインターネットで調べると新刊・古書の各漫画・ライトノベルのほか、中古同人誌やアニメのグッズ・コスプレ衣装等を販売している企業の名前だ。
ここから春日通りを通り過ぎ、山手線を渡る西巣鴨橋を過ぎ、右手に曲がり大塚方面に向かう。この西巣鴨橋からもスカイツリーが線路の先に良く見える。昔の巣鴨は、駒込駅~池袋駅一帯を指す、かなり広い範囲の地域名だったそうだ。
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空蝉橋 |
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案内者いわく、ここからのスカイツリーがよいという。スカイツリーをバックに記念写真を撮る。
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大塚台公園 |
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この公園にはC58407の機関車が飾られている。製造年月日を見ると昭和21年12月29日にと書かれている。我々85周年仲間の誕生した年の製造だ。よく頑張ってきたもんだ。
都電の線路を過ぎ、案内人の実家の前を過ぎ、大塚三業地に向かう。
・ 駅へ下る都電の線路跨ぎては
日々暮らしたる大塚の町
・ 江戸一の看板もけふは見て過ぎぬ
かつて住みし町はや夕暮れて
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途中の家々の植物を眺める。
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カクレミノ(隠蓑) |
コムラサキ |
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大塚三業地 |
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大塚三業組合の案内のとなりには、「大塚芸者と遊びましょ」との新聞も貼られている。
「三業地」とは「料亭」「芸者置屋」「待合」の三業が許可された場所で、俗に花街と呼ばれた歓楽街のこと。確かに料亭らしき建物をあちこちに見ることができる。
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・ 待宵の月うす青く懸かれるを見上げて歩く三業通り
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・ 三業地スナック「歩み」のマスターは同じ戌年と知れば親しも
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スナック歩:案内人の幼友達が開いているスナック。この日、懇親会後、「歩」でさらに懇親を深めた。 |
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天祖神社 |
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駅前の天祖神社の案内をまず見てから、都電の線路、商店街を通って天祖神社を見学する。
鎌倉時代の元亨年間(1321~4)に巣鴨村の鎮守として創建された。
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昭和30年代初頭の大塚の町の写真が飾られていて、白木屋の白い建物も写真に残っていた。
・ 駅へ下る都電の線路跨ぎては
日々暮らしたる大塚の町
皆疲れているようで、早く座りたい、早く懇親会会場に行こうよと、ごね始める。案内人は電話で開始を5時半に早める交渉をする。
かくして、本日のまち歩きも無事に終了。足は懇親会へと向かう。
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