85周年会の「まち歩き」記録

『瀋陽・長春・ハルビン』

   中国東北3省の省都(遼寧省瀋陽、吉林省長春、黒龍江省哈爾濱)を訪ねる、参加者7名の旅です。

<スケジュール概要>
2012年5月31日木曜
成田から瀋陽経由ハルビン(哈爾濱)へ:機内で昼食、遼寧賓館(旧ヤマトホテル)、北陵公園「昭陵」、夕食は中華料理、ハルビンへ新幹線移動、ハルビンで一泊
2012年6月1日金曜
ハルビンから長春へ:
人民防洪勝利記念碑、ロシア風情小鎮、(太陽島公園)、火鍋の昼食、中央大街と聖ソフィア大聖堂、長春へ新幹線移動、夕食は韓国料理、長春で一泊
2012年6月2日土曜
長春から再び瀋陽へ:
偽満皇宮博物院、旧満州の古い建物見学、昼食は田舎料理、瀋陽へ新幹線移動、夕食は餃子料理、瀋陽で一泊
2012年6月3日日曜
瀋陽から成田へ:
瀋陽故宮博物院、バスで瀋陽桃仙国際空港へ、機内で昼食、成田着後解散

<5月31日木曜>
成田空港&機内
成田空港に8:15集合。成田での中国元は1元が14.36円でした。飛行機に乗り込むまで、また降りてからもいろいろなことがありました。
その1: A氏、現金、カードを忘れる。出発待ちのレストランのテーブルの上にチケットを忘れる。
その2: B氏、荷物を預けず機内にすべて持ち込む。X線チェックで、スプレイや液体だけでなく、爪切り、さらにアーミーナイフも見つかる。改めて機内持込の手続きをするために、別ルートで外に出してもらう。
その3: C氏、現地での飲み物として成田の免税店で購入した焼酎を機内に忘れる。
その4: D氏、現在は流通していないと思われるお札を1万円近く持参。一分と言うお札だ。これは角の10分の一だから、昔の日本での厘の相当するのだろうか。1元=10角=100分になる。1分は0,14円だから中国ではもう使用できないだろう。今や古銭としての価値のほうがあるのではと思われる。
成田発10:00のANA925便。飛行時間は約3時間半。飛行ルートは北朝鮮上空を飛ぶことができないようで、ウラジオストックから左に曲がり、瀋陽に向かっている。
瀋陽桃仙国際空港から瀋陽市内へ
12:30に瀋陽桃仙国際空港に着陸。ガイドの潘(ハン)さんが待っていた。
12:50に車が待っているところに移動していくが、どうもVIPの通用口のようだ。車も7名でゆったり一人掛けできる大きさだ。外は黒い雨雲が覆っている。途中雨が降ってきた。これからどうなるのか心配する。
車内で潘ガイドがいろいろ話をしてくれる。アカシアの並木が続くが花のシーズンではないようだ。
瀋陽の町に入る。何とラッキーなことに雨はやんでくれた。瀋陽は、遼寧省の省都で、古くから満州族の故郷となっていた。20世紀には満鉄(南満州鉄道)の中心地として、日本人の移住が多かった。この時代日本では奉天と呼んでいた。
潘ガイドの話
瀋陽の人口は700万ほど。2013年6月に瀋陽で中国の国体があるので準備の工事などが多い。新幹線は中国語では動車という。北のほうはまだ事故がないので安全だ(「まだ」とはどういうこと?)。雨が降ってくれてよかったね、埃が落ちてよく見えるようになっているよ。瀋陽では土地は購入できず、使用権だけ。1㎡が7000元(約10万円)。風水の話で川の北が「陽」で南が「陰」。日本語がうまいのは富山大学に1年いった。富山は瀋陽の姉妹都市。中国にはリアカーはない、荷物は前に置くフロントカー?だ。これは前であれば常に監視できて盗まれない、等々・・・・。
遼寧賓館(旧ヤマトホテル)
13:45から遼寧賓館(旧ヤマトホテル)を見学する。中山広場前にあり、新館として1929年に完成し営業を開始した。
白を基調とした建物。エントランスを入るとグリーンのタイルの柱や壁が目に入る。ロビーにはピアノが置かれている。
手摺のゆっくりとカーブをしている階段を見学。このカーブが良いのだそうだが、階段下には荷物が置かれていて興ざめ。約15分あちこちを見学する。遼寧賓館の前の中山広場の中心には毛沢東の像がある。瀋陽駅も近い。
<解説>遼寧賓館(旧ヤマトホテル)
内外装はアール・デコ調で、外壁は白色のタイル貼り仕上げ。全室浴室付き。バー、ビリヤード室、理髪室など長期滞在者向けの設備が設けられた。当時は最新かつ最高格式のホテルとして知られ、戦後も毛沢東や鄧小平がここを訪れている。現在も3つ星ホテル遼寧賓館として営業している。客室(77室)は現代的に改装されているが、エントランスやレストランは往時のまま。エレベータホールには著名人の宿泊を示すプレートが標示されている。
北陵公園「昭陵」
次は瀋陽北駅のさらに北にある北陵公園に向かう。清の2代皇帝である太宗ホンタイジとその妻・ボルチジ皇后の陵墓である。正式名称は「昭陵」だが、北に位置するので北陵と呼ばれている。ホンタイジの死亡した1643年に着工し、完成は1651年。世界遺産だ。良い天気になってきている。
入り口から陵墓の本当の入り口までは、約1.5km離れている。歩くのは大変で、5元の電気自動車が運んでくれる。この陵墓を作るため、南に池を作り、そこからの土で、北のほうに山を作ったという。これも風水だという。大紅門などいくつかの門をくぐると長い神道。門や壁には龍の絵柄が描かれている。
ここからが本当の昭陵の入り口。
両脇に華表と呼ばれる石柱がある。昔は木製で、意見を貼る場所だったという。馬、らくだ、象などの石獣が並んでいる。
隆恩門がやっと近づいた。
隆恩門を通り抜けると、そこには城壁に囲まれた四角形の広場(方城)がある。ここの敷地を敷いているレンガには、金の粒が入っていたという。方城の中央に隆恩殿がある。飾りのメスの獅子が子獅子に乳を与えている。珍しい。
ここから気になる建物の屋根が見える。清朝の特徴である、異なる宗教が建物で一体となっている。隆恩殿の裏手に行くと城壁に門の飾り(本当の門ではない)がある。ここが陵墓への入り口だと示しているのだろうか。
別のところから円形の陵墓(宝頂という)をぐるりと見学。いまだに墓は一度も開けられたことがないという。本当の入り口もまだ分かっていない。陵墓の真ん中には一本の木がそびえている。これは楡の木だ。ホンタイジが何かの時(説明してくれていたが良く聞こえなかった)、目覚めると上に楡の木があったことから植えたという。ゆっくりと一回りしながら、陵墓(宝頂)を見学する。全体を 一時間ほど見学した。
なお、瀋陽にはこの他にも関外三陵(他の二陵は東陵と永陵)と言われる陵墓がある。清朝の初代皇帝ヌルハチと彼の妻の陵墓が福陵だ。瀋陽の東郊にあるので、東陵とも呼ばれる。少し遠い場所のようだ。
買い物
15:40頃から20分ほど買い物をする。ぞろぞろと8人が並んで買い物をしていると、一人の中国の若者がしばらくの間ついてきて、ジーと我々の行動を見ている。気味が悪かったが、途中で興味もなくなったのか離れて行った。
ちび丸子「小丸子」のキャラクタ使用されている。良いのかな?
夕食
16:00過ぎに早めの夕食に向かう。途中、お金の形をした建物、銀行がある。ガイドがこの建物は世界で醜い建物10のうちの一つに選ばれているという。夕食は、瀋陽の中華料理でした。
瀋陽からハルビンへ
17:30頃に瀋陽北駅に向かう。まだ明るい。瀋陽は東北一の省都というだけあって、瀋陽北駅前には多くの高層ビルが立ち並んでいる。瀋陽北駅は改築中で、仮設の改札所から入っていく。ハルビンまでは18:40瀋陽北駅を発ち、23:10にハルビン(哈爾浜)に着く和諧号という新幹線に乗る。切符には名前とパスポート番号も印字されている。
20分ほど前にプラットフォームに入れてくれる。 ホームで新幹線和諧号の写真を撮る。
<解説>CRH
「CRH」(China Railway High-speed;中国鉄路高速)は、2007年4月18日より本格的に営業運転を開始した高速鉄道車両。中国国鉄は自国開発を諦め、川崎重工、ボンバルディア、シーメンス、アルストムの4社から技術移転を受け、高速鉄道車両をライセンス生産する。車両はいずれも電車方式で8両固定編成となっている。「調和」の中国語で「和諧」(フーシエハオ)という愛称を持つ。人と自然の調和、技術の調和、社会の調和を願ってつけられたもの。主な運転系統は、北京~天津・北戴河・秦皇島・瀋陽北・長春・哈爾濱、北京~上海、北京~済南・四方など。列車の最高速度は200km/h~300km/hで、現在は大半が高速運転化改良した在来線を走行する。
ハルビン駅からホテルへ
23:10過ぎにハルビン駅を出ると、大きな掛け声があちこちでうるさい。ホテルの客引きだという。現地ガイドの名前はテイさん。ハルビンの町のネオンは少なく、町全体が暗い感じだ。23:20過ぎにホテルに着く。松花江の前の広場に面した西洋風の5つ星のホテルだ。

<6月1日金曜>
朝の散歩
松花江に沿っての散歩開始。すでに8時にはホテルの前の広場には、多くの人が散歩をしている。また、踊りを音楽に合わせて踊っている。中国人の観光グループもすでに動き初めている。今日も晴れだ。
松花江の川幅は1kmもあり、冬は凍結して、川の上ではスノーモービルなどの遊びができるようだ。ハルビンは黒龍江省の省都で、人口約310万人。東清鉄道が敷設されてからは帝政ロシアのもとで急速に発展。現在、新潟との姉妹都市。この松花江を渡るロープウエイもある。世界でも珍しいのではないか。外国人は50元と書いてある。その松花江に沿ってホテル前の広場から左右に歩道がずーと延びている。長いポプラ並木の散歩道だ。
<解説>松花江
アムール川最大の支流。長白山系の最高峰、朝鮮語では白頭山と呼ばれる長白山の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、松嫩平原に入り、白城市(大安市)で北東に流れを変える。吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する。
松花江の反対のほうに少し歩くと、ロシアの雰囲気の建物が見えてくる。
ハルビン市人民防洪勝利記念碑
9:00より正式なハルビン観光開始。ホテル前の広場をまず見学。先ほどの搭がハルビン市人民防洪勝利記念碑。近年3回の大洪水時の水位を示している。1932年、1957年、1998年の夏に洪水が起きている。
松花江を渡る
ホテルの前の松花江の向こうには太陽島が見え、これから訪問する。遊覧船もあるが、我々は10人乗りくらいのモーターボートに乗り込む。下流の方には鉄道の橋が長々と川を横切っている。この鉄道はシベリアに通じている。船中の話題として、長七が米国、ブラジル、欧州を訪問し、シベリア経由での帰り道、同じところを通過した可能性があるかもなどと話し合う。
太陽島の川岸では多くの子どもたちが川で水遊びをしている。冷たくはないのだろうか。
この島は昔ロシア人の別荘地が多くあったそうだ。ガイドは、これからパスポートが必要だという。これから入るロシアの建物がある公園の入場チケットがパスポートの形状をしている。ロシア人系の人が穴を開けてくれる。俄羅斯風情小鎮(ロシア風情小鎮)という。ロシア人の別荘として使用していた建物を利用して売店やロシアの昔の生活などが分かる。
いくつかの建物に入る。建物は小さく、特長のある形をしている。これがロシアの一般家庭の家のようだ。ロシアの政治家たちのマトリョーシカが並べてあるが、5人全部がなかなか特定できない(右から2人目が議論の対象)。
ロープウエイの駅に向かって歩き始める。歩道に沿ってライラックの植木が続いているが、すでに花は終わっているようだった。しかし、一つだけまだ白い花を咲き残しているのがあり、花の香りをかぐ。良い香りだ。柳の白い綿が雪のように舞っている。柳糸と言われるものだ。吹き溜まりに雪がたまっているようなところがあり、写真に撮る。右端は白い綿の正体か。

リスがあちこちに見える。リスのことを松鼠と呼ぶという。
<解説>
中国語では、リスは「松鼠」(ソンシューまたは「灰鼠 」フェイシュー)という。栗鼠とは書かない。現在の中国では「栗鼠」ではなく、むしろ「松鼠」を使う。
松花江を渡るロープウエイ
11:10に、帰りのロープウエイに乗る。約13分ほどだが、川を渡るロープウエイから太陽島の全体が上方から見渡せる。
火鍋の昼食
12:10に昼食のお店に向かう。ガイドが、中国で一番古いビール工場は青島ではなく、ここハルビンだという。また、ビールの消費の多い都市は、1位がミュンヘン、2位がモスクワ、3位がハルビンだという。
12:30から14:00ちょっと前まで火鍋の昼食。牛と羊。麺2種。野菜多種たくさん。中国製のたれも多種あったが、醤油と黒酢を頼む。おいしかった。
中央大街
14:00から銀ブラではなく、中央大街で金ブラを楽しむ。なぜ金というのかは聞きそびれた。晴れて暑い中を古い建物を写真に撮りながら進む。ここにも361°というお店がある。
<解説>
中央大街は、アジア最大の石畳の目抜き通り。ロシア語でキタイスカヤと呼ばれ、昔は中国人街であった。その規模は、全長1450m・幅21.34m。 ロシア統治時代の建築物が数多く残され、「東方のパリ」とも称される西洋風の街並みが一直線に松花江に向かい、南は経緯街(十字街)から北は松花江防洪記念塔まで伸びている。道をはさみ、欧州風建築物が建ち並び、ほかに、ルネサンス式、バロック式、折衷式など中国でも珍しい多種多様な市指定建築物がある。2006年にはモダンなショッピングセンター「EURO PLAZA」がオープンした。
聖ソフィア大聖堂
14:30から聖ソフィア大聖堂を見学。当時の写真や模型が飾られている。外に出ると写真撮影用のモデルたちがいたり、結婚の写真撮影を撮っていたりして、写真撮影のベストスポットになっているようだ。
<解説>聖ソフィア大聖堂
日露戦争の終戦2年後にあたる1907年3月、帝政ロシアの兵士の軍用教会として創建された。その後もロシアの茶商人などが出資で拡張し1932年に現在の姿に。現在はハルピンの開拓期の写真をはじめ、絵画、教会堂などの模型が展示されており、観光名所となっている。高さ53.35m、建築面積721m、ビザンチン建築の影響を受け、平面がラテン十字形。約2000人が収容できる規模である。最上階の鐘楼には音の異なる7つの鐘がある。内部の壁は痛みが激しく古色蒼然。窓ガラスにはステンドグラスは一切使われていない。豪華なシャンデリアは特に壮大である。
ハルビン駅に向かう
15:00からハルビン駅に向かう。ここも中心地は大きな都市、ビルの街だ。古い建物、新しい建物が混在している。
ハルビンから長春へ
少し早めに着いた。夜とは違い活気に満ちた駅前で、人であふれている。駅前はやはり高層ビルが建ち始めている。この辺にハルビンのヤマトホテルがある。まだ時間も早いと言うので、ハルビン駅の中にある歴史展示会場を案内してくれた。満鉄時期の写真と伊藤博文の写真もある。ハルビンはソーセージでも有名で、駅のお店にソーセージが冷蔵庫に保存されていた。太目のソーセージだ。
16:40ハルビン発の新幹線で長春に向かう。プラットフォームに伊藤博文の暗殺の記録があるはずだと窓から探したが見つからなかった。
<解説>
明治42年(1909年)10月、ロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃された。安はロシア官憲にその場で捕縛された。享年69。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている。
今回の乗っている時間は、長春までなので来るときの半分。外は明るいので、車窓の外の大平原を楽しむことができた。大平原とはどこまでもずーと平らで小さな丘もほとんど見えないということだと実感できた。
長春に着き、ホテルまで
時間通りに長春に着く。新しい現地ガイドは単さん。18:47に車に乗りホテルに向かう。
車中ガイドの単さんはいろいろと紹介。長春は、東北で3番目の都市。1番は瀋陽、2番はハルビン、3番長春、4番大連だという。片道2車線で、内側が黒松、外側がポプラの2段の並木が続いている。電柱は地下に埋められている。東西南北20kmの都市。長春では柳やポプラの白い綿が空中を舞っているのを「6月の雪」と呼んでいるという。自動車産業が中心。ガイドは農協に勤めていたが、つぶれたので旅行のガイドになったと言っていた。
19:10にホテルに着き、チェックイン。夕食に出かけるためロビーで待っていると、聞き覚えのある曲を若い女性がピアノで弾いている。「冬ソナ」だ、中国で聞けるとはと。
夕食は韓国料理。その韓国レストランが見つからず、同じところをくるくる回り、路地に入り込んではバックで戻る。車内は険悪なムード。とうとう運転手が現地ガイドに代わり、直接韓国レストランに携帯で電話をして、やっとたどり着く。部屋に入るとすでに焼かれて焦げがついているお肉が冷たく並んでいた。焼肉料理でなく、こげ肉料理になっている。現地ガイドが部屋に入って来て、ニコニコしながら、「本日は大変でしたね」と話しはじめる。強い言葉で、文句を言うが、柳に風のように相変わらずニコニコしている。怒るほうも拍子外れ。
懇親会
21:30に今回のまとめ役の部屋で懇親会が始まる。現地ガイドがお詫びとしてスイカを差し入れてきている。
ハルビンのお土産屋で売っていた鹿の角の薄い輪切が話題になる。鹿は毎年角が生え代わるそうで、その若い角を薄く切って精力剤に使うそうだ。
23:00解散。

<6月2日土曜>
車中での話
8:30にホテルを出発。現地ガイドから愛新覚羅についての説明を聞く。
<解説>
その昔、天女の三姉妹が水浴びをしていると、神の使いであるカササギが赤い実を運んで来た。末の娘・仏庫倫がその実を口に入れると、たちまち身ごもり、布庫里雍順ブクリヨンションという男子を産んだ。布庫里雍順は容姿端麗・聡明で、3つの部族を治めて満州族の始祖となりました。その子孫がヌルハチで、清の初代皇帝となった。清朝最後の皇帝が愛新覚羅溥儀である。
偽満皇宮博物院
9:00から偽満皇宮博物院を見学。偽満皇宮博物院は、満洲国の首都新京(現在の吉林省省都長春)に築かれた満州国皇帝の宮殿。ラストエンペラー愛新覚羅溥儀が、満州国の傀儡皇帝として1932年から1945年まで生活した。溥儀は、御用掛吉岡安直に監視され、自由な意思を表現することができなかったという。
偽皇宮の主な建築は、黄色い瑠璃瓦で覆われた二階建ての小楼と、勤民楼、4人の夫人と暮らした緝煕楼(しゅうきろう)、同徳殿で、それぞれ風格が異なり、西洋と東洋の折衷様式となっている。まず入り口を入り左に歩いていくと、競馬場の先には溥儀の御料車庫だったところが見えてくる。興運門を通り抜けて内廷に入って行く。
緝煕楼は生活区で、1932年から1945年まで溥儀が住んだ。緝熙楼前に江沢民による「勿忘“九.一八”(満州事変を忘れるな)」と刻まれた大きな石碑がある。
1階の東側では、溥儀や皇后、皇妃の生活写真の展示、西側では皇后譚玉齢が住んだ場所の展示が行われている。
2階の西側には、寝室や書斎、仏堂などが展示されている。溥儀は、トイレの皇帝といわれ、毎朝新聞を持って長い間座っていたと言われる。溥儀は体が弱かったせいもあり、薬中毒だったという話がある。医師が調合した漢方薬や西洋薬をこの薬房で保存をして、服用していたという。
溥儀の書斎で溥儀と御用掛の吉岡安直がソファーに座って話をしている様子を再現。仏堂もある。いろいろな宗教に頼っていたようだ。
2階東側は皇后媛容が住んだ場所で、寝室、吸煙室ある。婉容はアヘン中毒だったといわれている。
勤民殿では、1934年3月1日に溥儀が満州国皇帝の即位式典を行った。溥儀が政務を行った場所。
1階では、日本の植民地時代から東北が解放されるまでの様子を写真と実物資料を用いて紹介。2階には、法律や法令を発布したり、外国の使節に接見した御学問所、様々なパーティが開かれた賜宴殿などがある。そのほか、明治時代以降の日本の陶磁器が展示されている。勤民楼の中にある「西便殿」では、普段溥儀が事務処理や学習、非公式の接見を行っていた。溥儀が満州国の皇帝になった直後は清朝の復活を目指して熱心に政務に努めたが、自分が日本の傀儡ということに気づいた後は、やる気を無くしここにも来なくなったそうだ。
勤民楼は口の字型の建物になっていて、真ん中には中庭がある。ここにも仏堂がある。それも各種仏教の仏様を飾っている。賜宴殿は重要な式典や祝典を行った後に宴会を行う場所。賜宴殿には音楽室もあった。
同徳殿。集合写真を撮る。塩の専売局の建物を改装した勤民楼や緝熙楼では、仮の宮殿とは言えあまりにもお粗末ということで、日本人による設計で新たに同徳殿が建てられた。帝冠風の建物で、屋根は黄色の瑠璃瓦を使っている。映画「ラストエンペラー」では、溥儀の満州国皇帝即位を祝う舞踏会の場面等がこのホールで撮影されたそうだ。
溥儀は同徳殿に関東軍による盗聴器が仕掛けてあると疑っていた為、同徳殿が完成しても溥儀がここの寝室を利用することはほとんどなかったそうだ。緝熙楼を生活の場としていた。中国式の家具が置かれた中国間や、ビリヤード室もある。映画ホール。よく映画観賞会が催された。スクリーン前に、皇帝と皇后の玉座がある。
車窓越しに旧満州の古い建物見学
これからしばらく車の車窓越しに旧満州の古い建物を見学する。長春の駅前からまっすぐに伸びている人民大街の左右にそれらの建物が並んでいる。旧満州軍事部、旧官庁街などを見る。
旧満州軍本部は、ちょっとしたお城のような構えだ。しかし、停車ができないから車窓からの遠景だけ。ここは現在医院になっている。門には赤い字で「中国共産党吉林省委員会」と記されている。
旧官庁街は、今は医学大学や病院としての利用に変化している。病院街,大学街だ。
交通部 司法部
経済部 最高法院
昼食
昼食の場所は地元でも有名な田舎料理のお店、向陽屯。懐かしい雰囲気のするお店だ。豚の鼻も売っている。さすが誰も頼まない。部屋の壁には長白山や政治をネタにした漫画が描かれていた。
12:30から一時間ほど昼食を楽しむ。さっぱりしたものが多く、満足。
マーケット見学
現地の人たちの生活が分かるようなマーケットを見たいと歩いてそこに向かう。フートンがあったが、北京のもののような雰囲気はもう残っていない。百草胡同。地元の食料品を売っているところを見学する。
長春から瀋陽へ
14:00頃に長春駅に向かう。駅前のビルは瀋陽に比べると、それほど立派ではなかった。
今日は瀋陽への移動。15:20長春発で、17:44に瀋陽着のD22新幹線。一等車のはずが、2等車の切符になっている。またのあのガイドのチョンボか。座れるのだからまー良いとあきらめる。しかしなんと多くの人が待っているのだろう。すごい民族移動だ。今回も2時間ほどの乗車。2等車でも少し狭いのを我慢すれば問題なしだった。
車窓からの景色を楽しむ。この新幹線は大体150km/hで走っているのが、本来は200km/hを越すスピードで走るはず。事故を意識して少しスピードを落として運転しているのだろう。途中、四平駅や鉄嶺駅に停まる。瀋陽のそばに近づいてくると丘があちこちに見え、そこには風力発電の風車が数多く見える。数100基は固まって構築されているようだ。再生可能エネルギーの代表が風力発電で、社会実験も踏まえているのかも。
瀋陽駅での経験
瀋陽に着くころ車窓に雨が矢のように突き刺さってくることがある。17:45に瀋陽駅に着く。大きく広い天井を雨が激しく、大きな音を立てて打ち付けている。ホームから階段を下りようとしたが、大混雑している。しばらく経ってどうにかゆっくりと下に降りて行くことができた。地下も大混雑。大雨のため水がたまり通れないようだ。はだしになって歩いて行く人もいるので、見習って手に靴と靴下を持って水の中を進んでいく。改札口に着いたが、外も大混雑。雷と稲妻、さらに強い雨が降り、道路が水に浸かっている。傘を差して歩いていける状況でない。ホテルのスリッパを履いてこれで歩けばガラスなども大丈夫だろう。全員はだしになり、スリッパを履く。バスが待っているところまで歩き始める。雨はどうにかやんできていて、水溜りの中をゆっくりと注意して進んでいく。車のところに集まり記念写真を撮る。良い記念だ。
夕食
今回はホテルに直行せず、夕食の餃子の本舗、老邊餃子館に向かう。18:00過ぎに着く。はだしのスリッパ姿でぞろぞろとレストランの中に入っていったので、お店の人はびっくりしたことだろう。12種類ほどの餃子がどんどん出てくる。基本は水餃子で、焼き餃子は一品。満足。大雨の経験談も話題になる。ガイドが携帯で今日の大雨で雹が降ったと写真を見せる。なんとピンポン玉ほどの大きさだ。これが頭に当たったら痛いだろう。
20:35にお店を出てホテルに向かう。少し離れたところにあったようで21:10にホテル着。

<6月3日日曜>
朝市見学
瀋陽は遼寧省の省都で、人口約720万人。ホテルの左の通りは朝市になっている。このホテルは裁判所の招待所だった場所。招待所とは、ある組織の保養所や宿泊場所で、当初はその組織、ここでは裁判所関係の人しか利用できなかったそうだ。現在は一般に開放され、ホテルになっている。ホテルの呼び方は中国にはたくさんある。
野菜、果物、肉、揚げ物、魚、・・・・多様なものが大中小のお店で売られている。通りの両側が店だ。
中国式リアカーで、運ぶものは前に乗せる。何とこれもアカンボが盗まれないようにとの、中国式アカンボ搬送方式か。
瀋陽故宮博物院
9:00に瀋陽故宮博物院に行く。この街では車道を人間が、歩道を車が走るようだ。気をつけよう。故宮博物院は、3つある。中国北京市の故宮博物院(紫禁城)、中国瀋陽市の瀋陽故宮博物院、台湾台北市の国立故宮博物院。10分ほどで瀋陽故宮博物院に着く。ここも世界遺産。近代的な建物と対比される新時代の門。
瀋陽故宮正門である大清門から入っていく。「殿」は仕事をするところ、「宮」は住むところにつけられると言う。崇政殿をくぐり、東路 東掖門を通過して大政殿や十王亭をまず見学。大政殿を背景にしてまず記念写真。
<解説>
瀋陽故宮は、中国の遼寧省瀋陽市内に残る清朝の離宮である。北京の故宮と並んで、保存状態の良い後金時代の皇居。建築様式は漢民族、満州民族、蒙古民族の様式が融合している。規模は、北京の故宮の12分の1である。1625年に建てられた後金の2人の皇帝・ヌルハチとホンタイジの皇居で、清の入関後は引き続き離宮として用いられた。2004年にはユネスコの世界遺産に登録された。現在は、瀋陽故宮博物院として一般公開されている。敷地内は主に(東)路(東院)、中路(中院)、西路(西院)に分けられる。
大政殿。清朝初期の皇帝が重大な式典を執り行った場所で、宮殿群における主要建築となっている。正面の2つの柱には、皇帝の象徴・金の龍が絡み付いている。
十王亭は右大臣に相当する右翼王と左大臣に相当する左翼王の執務室と八旗それぞれの建物それぞれ10の建物で、大政殿前の広場の左右にある。各建物には軍隊の旗や戦闘服、武器などが展示されている。
<解説>
十王亭とは、左翼王亭、右翼王亭および八旗亭のこと。八旗とは、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初は黄・白・紅・藍の4旗であったが、ヌルハチの統一事業の進展により旗人の数が増え、各色に縁取りのある4旗が加えられ、1615年には正黄・.黄・正白・.白・正紅・紅・正藍・.藍の8旗が整備された。
大政殿の後方にはお宝が展示してある。台湾に比べると数も少ない。
中路に向かって歩いていく。小さな門を通り抜ける。この門の後方に見える高い見張り台のようなものは、近接して建てられたショッピングセンターのビル。景観を壊さないように城壁のように見えるよう作らされたと言う。つなぎの通路の壁の色はピンクで、華やかな感じがする。中路には階段を登っていく。黄色い瓦は皇帝しか使用できない。
中路。瀋陽故宮の中でもホンタイジ時代の建物で、主な建物には崇政殿、清寧宮、鳳凰楼がある。これらの古い建物のそばには高層ビルが建てられている。特に近くのショッピングセンターの見えるところは城壁のような形にして違和感を少しでも減らそうとしているのが分かる。しかし、これらの近代的な高層ビルは、長く持っても、おそらく50年くらいで解体されてしまうことだろう。瀋陽故宮の永続的な保存を期待したい。材質的にどこまで可能なのだろうか。
清寧宮は、皇帝と皇后の寝室と側室の寝室4棟が並ぶ皇帝とその家族の生活空間であった。床のタイルの下はオンドルになっていて、寒さ対策は十分だったようだ。清寧宮は、ホンタイジと皇后・ボルチジの寝室。他にホンタイジの妃と宮女の寝室として、関雎宮、麟趾宮、衍慶宮がある。永福宮は、ホンタイジの荘妃で、順治帝の生母であるブムブタイの寝室。順治帝生誕地。
清寧宮と崇政殿をつなぐ位置に鳳凰楼がある。鳳凰楼は瀋陽故宮の中でも最も高い建物で3層から成る。3層目からは皇帝が酒を飲みながら月を見たという。前には神の竿と呼ばれる竿が、まっすぐに立てられている。崇拝するカラスへのお礼のえさを刺して提供していると言う。崇政殿のほうからの鳳凰楼はそびえるように見える。崇政殿は中路の正殿で、ホンタイジの執務室である。崇政殿は、1626年に造営が開始され、1635年に完成した宮殿で、ホンタイジが政務を執った所。
西路。門をくぐって行く。迪光殿、保極宮、継思斎、敬典閣、崇謨閣を見ていく。庭には金木犀の花が満開だ。海棠の花も咲いていた。見学終了。出口前には貸し衣装屋があり、親子が借りて記念写真を撮っている。
成田への帰路
10:30頃に少し早いが、空港に向かう。途中高層マンションがあちこちに建っていて、さらに新しいものも建設されている。住む人がいるからだと思うが、すごい勢いだ。11:30に空港の駐車場に着く。12:00ちょっと過ぎにチェックイン。13:15に飛行機は瀋陽を出発。17:07に成田空港に着陸。外に出たのは17:30過ぎ。
お疲れ様でした。

 
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