85周年会の「まち歩き」記録

第29回 『いにしえと桜を訪ねて-板橋まち歩き その2』
    T君が小学生から中学生にかけて近所の幼馴染と走りまわって遊んだり、ちょっぴり足を伸ばして冒険したり、まるで「しろばんば」の洪作のように過ごした世界を紹介します。
4月7日は、さくら見ごろ予想にぴったり当たるようです。「お天気になりますように」との期待で開催されました。少し肌寒い感じでしたが、さくらの花には歓迎されました。
日 時:2012年4月7日(土)
集合場所:有楽町線・小竹向原駅
集合時間:午後2時

ルート
<遺跡巡りとお花見>
小竹向原駅→根ノ上遺跡→茂呂遺跡→栗原遺跡(都立城北公園内)→都立城北公園
<石神井川に沿ってのお花見-旧川越街道から旧中山道仲宿まで>
旧川越街道→下頭橋と六蔵祠→向屋敷遊園地跡の水神様→旧中山道→板橋→仲宿→脇本陣跡→
文殊院 遊女の墓→本陣跡→高野長英 縁の地→王子新道
<懇親会会場>
あかのれん
参加者19名(途中3名追加参加) 懇親会:20名
[世 話 人] 案内人:小林俊夫(016) 吉川光子(018)
[今回の歩数] 小竹向原駅から 13150歩 8.8km。 3時間49分でした。
以下の報告に、松木さん(017)の短歌を挿入いたしました。

1.遺跡巡りとお花見第一部
<スタート/根ノ上遺跡>
遺跡巡り参加者は19名。皆、時間通りに集合しました。2時4分にスタートです。
5.6分歩いて根ノ上遺跡到着。住宅地の真ん中のこぢんまりとした児童公園になっています。
住宅地の細い道をさらに歩きます。意外と交通量が多いので、おしゃべりに夢中になるとちょっと危険。桜咲く大きな公園を左右に見ながらひたすら歩きます。
公園内では花見の宴が盛り上がっています。これらの公園は今回通りすぎるだけ。
<解説>根ノ上遺跡
1984から86年の発掘調査で、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、平安時代、太平洋戦争時などの遺構や遺物が発見された。弥生時代の集落、住居が復元されている。
<茂呂遺跡>
やがて茂呂遺跡に到着。ここは保護林のため入れません。フェンス越しに眺めましょう。

<解説>茂呂遺跡
旧石器時代の遺跡。ナイフ型石器が出土。

<T君の記憶>幼馴染と「どんぐりひろい」と称して探検にきて赤土の斜面を滑って遊びました。当時は周辺一帯は赤土の山で、通称「はげ山」と呼んでいました。
<城北公園/栗原遺跡>
石神井川を渡って城北公園到着。左手は大きな敷地の都立大山高等学校。なかなか立派な校舎です。
塀沿ひにヒマラヤ杉の並び立つ大山高校といふを見て過ぐ

城北公園高台へすすむとやがて茅葺の小屋が見えてきます。ここが栗原遺跡。
<解説>都立城北公園:
戦時中は防空緑地で、戦後公園として整備された。一時期敷地の一部が立教学院の総合グラウンドで、立教在学中の長嶋茂雄も練習に通っていた。コアラのエサとしてユーカリを栽培している国内6カ所の一つ。園内で9種類のユーカリが栽培されている。
<解説>栗原遺跡(都立城北公園内):
奈良時代の竪穴住居址に、茅葺家屋が推定復元されている。
<T君の記憶>川沿いの現在空き地になっている場所には嘗て牛舎があり乳牛が飼われていました。
いよいよお花見パーティーが始まります。せっかくなので、大きな桜を求めて公園中央まで歩きます。
「おおっ!テーブルもあるしここにしましょう」。いつものように川口さんがワインを調達してきてくれました。フランスパン、チーズ、ケーキ、ピクルス…あっという間に大きなテーブルいっぱいにおつまみが並びます。
時刻は3時ちょっと過ぎ。お腹も空いたし、喉も渇いたし、ピッタリのタイミングで宴が始まりました。
<大きな桜の下で>
<パーティー開始>
<宴たけなわ>
女性だけで(?)6本も飲んじゃいました。
2.石神井川に沿ってのお花見-旧川越街道から旧中山道まで
ここから石神井川を10分程離れて環七までショートカットします。4時頃、城北公園を出発。
新川越街道と環七との交差点から旧川越街道に入ります。だらだらと緩い坂を下ると再び石神井川です。
ここで、まち歩き途中参加者1名と合流。
<T君の記憶>下頭橋の20mほど手前の右手に鶏肉屋の看板がある(いつも閉まっている)。ここは嘗て鶏肉精肉場であった。春先に中板橋商店街の9の付く日に開催される縁日で雛を買って育て、年の瀬にここに持ち込んで正月料理の具とした。はじめは白色レグホン、翌年は名古屋コーチン、次は横斑ブリモス、そのうち雛を可愛がる歳でもなくなった。T君を取り囲む環境も「しろばんば」から「夏草冬涛」へ、やがて「三四郎」の世界と変化して行く。
<解説>下頭橋と六蔵祠:
旧川越街道が石神井川を渡る橋の袂で六蔵という名の乞食が物乞いをしながら座り続けていた。やがて亡くなったのでどかしてみると足元に大金が蓄えられていた。これを基金に立派な橋を架け下頭橋と名付け徳を偲んで祠を立てて祀った。シーズンには垣根の海棠の花が美しい。

さすがに石神井川沿いの桜はみごとです。本日は見頃の八分咲き。
つま先立って、のぞき込まなきゃ水面が見えないほど深い護岸も、水へ届けとばかりに伸ばした枝に咲く花はちょうど目の前です。
石神井の川沿ひゆけば湧くごとく桜つづきてけふの満開

<T君の記憶>昔の石神井川は土の土手で斜面となっていた。従って川底は浅く幅は狭く、側道の幅も狭かった。兄の運転する自転車の後ろに乗っていたところ運転を誤って斜面の途中まで滑り落ちた記憶がある。古い桜の木も斜面にしがみついて川の方に傾いていた。1958年の狩野川台風では川が溢れ木製の橋が玉突き状態で次々と流され近所の床上浸水の民家にも襲いかかった。その後時間をかけて改修工事が進められ、橋は鉄製となり斜面は鉛直になり川底も浚って深くなった。側道も広くなって自動車も通れるようになった。そのかわり斜面を降りて水辺で遊ぶことができなくなった。改修工事の際、古い桜の木は全て伐採され工事終了時に苗木が植えられた。今咲いている桜はその時の苗木が成長したものである。
<解説>向屋敷遊園地跡の水神様:
昔(大正時代?)、東上線が石神井川を越える辺りに遊園地がありました。目玉は石神井川の清流を利用したプールでした。中板橋駅は当初遊園地の開園日だけの臨時停車駅でした。線路のガードからプールに飛び込んで遊ぶ悪餓鬼もいたそうです。水難の無事を願った水神様がひっそりと祀られています。
復元された板橋。日本橋から二里二十五町の標識の前で集合写真を撮りました。

3.旧中山道、仲宿散策
<解説>板橋:
旧中山道が石神井川を渡る地点の橋で、板橋の地名の由来ともいわれる。源頼朝の命名。今回は割愛しますが他にも頼朝由来の名残がいくつかあります(轡神社、鎌倉街道)。
<解説>仲宿:
板橋の宿はとても長かったので、平尾宿、仲宿、上宿に分かれていました。前回歩いた新中山道との交差部から板橋駅までが平尾宿です。
今回歩いた範囲が仲宿で、まだ上宿が未踏で残っています(縁切り榎が有名です)。
仲宿の商店妻壁
脇本陣跡。下記の本陣とほぼ同格の親戚筋で、皇女和宮が江戸に入る直前に利用した。
文殊院 遊女の墓をみる。病気で使いものにならなくなった遊女を投げ捨てたと言われています。
本陣跡。中山道の長旅を終え、江戸に入るための準備を整えた本陣です。
高野長英 縁の地。高野長英が脱獄後一時身を隠したと言われています。
王子新道。旧中山道と王子新道との交差点に懇親会場「あかのれん」があります。ここから王子新道のだらだら坂を下ったところが前回(第19回まち歩き「王子から石神井川に沿って板橋へ」)「火薬製造用石臼のモニュメント」を見て体育館でトイレ休憩をとった公園です。野口研究所、金沢橋と続きますが記憶にありますか?
4.懇親会
懇親会会場は「あかのれん」。ゴール地点で3名が離脱。懇親会のみの参加者2名が加わり、計20名の宴会がはじまりました。次回の確認あり、五月末の中国旅行の勧誘あり、なんと忘年会の予定まで話題にのぼりました。
ひとの老いわが老いともにいとほしく花冷えの夜の酒酌み交はす
石器時代から皇女和宮までの歴史をたどるすてきなお花見で、参加者一同満たされた気持ちで帰路につきました。
 
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