粕谷一希著「二十歳にして心朽ちたり」を読んで
―精神の貴族主義を貫いた遠藤麟一郎の軌跡―


昭和21年夏、学生たちによる総合雑誌「世代」が誕生した。その初代編集長、遠藤麟一郎と周辺の都会的秀才たちはその関心を芸術・経済・社会のあらゆる
事象に向け、「いわばルネサンス的総合人を夢見て」(中村稔)“精神の季節”とも呼ぶべき一つの時代の実在を刻印して去った。「彼らはその煌く才能と同様、瞬間の火花を散らしながら、その火花を惜しみなく捨てていった。詩を捨て、文学を捨て、青春を捨てることが、彼らのスタイルであり、流行であった」と著者は本書末尾に書いている。その“彼ら”の中心人物、遠藤麟一郎という当時、麒麟児のようであった若者に著者は強い興味を持ち、その足跡を検証するに至る。結果として、華々しい青春を“俊敏なる才気”と”高雅な感性“をかざして足速に駆け抜け、やがて敗残にも等しい境遇で53歳にして逝った無名の人物、遠藤麟一郎の墓標のごときこの評伝が書かれた。著者が遠藤麟一郎に捧げた一本の薔薇の花でもあろう。執筆当時、中央公論編集者の職を48歳で退いた著者にとって、「原口統三や「世代」に連なる人々の影を追いながら、その逃げ水のような存在を意識の底に沈めたままで終えた学生時代はいつか正面から取り組むべき課題であった」ようだ。その意味ではこの著作は著者自身の過ぎた青春への鎮魂歌とも感じられる。”高貴な精神への憧憬、純粋思惟の徹底“を胸に生きようとした群像の列に繋がる一人としての若き日の著者でもあったろうか。

遠藤麟一郎こと通称エンリンは番町小、一中、一高、東大(海軍士官時代を経て)と学び、住友銀行に入社、労働組合運動に参加後5年半の左遷時代を経てアラビア石油に入社、志願してクエートの砂漠に在るカフジ基地に11年勤務、本社に戻り、昭和53年胃潰瘍のため死去。晩年は居所を会社にも知らせぬ状態であり、別居中の夫人は葬儀には姿をみせなかったという。一高・東大では眉目秀麗な秀才であり、トーマスマンを原文で読むため文乙(一高)に入り、日本古典を系統的に読むために国文学会に入ったという計画性に富む学生であった。当時の周辺の友人たちは、「われわれの青春のシンボルだった」「桃の花と春の風みたいな爽やかさ」、「絹糸のような繊細な神経」、「匂うような美少年、ホモセクシュアルな牽引力を発散」、「匂うような体臭、まぶしいような風貌、対者を圧する才智」「時分の花が漂っていた」、「言語表現に関わる一切の事柄に異常なまでに研ぎすまされていた」、「肉体と精神は高度な均衡を獲得していた」「やさしい都会人」などとさまざまに、しかし愛惜をこめて、高踏的な貴公子エンリンをしのんでいる。周辺の人々とは、宗左近、いいだもも、倉田卓次(判事)、中野徹夫、中村稔、清岡卓行などなど。

著者の疑問は、このような可能的表現者足りえた詞藻豊かな青年がなぜ、経済学部を選び、銀行に就職し、組合運動に就き、あげく中東へ去ったのか、なぜ
実務家としての表現者の道を選ばなかったのかという点にあった。エンリンは“あらゆるものを得ようとするとき、一切のものを得ることができない”というテーゼの証明者だったのかと著者は疑う。人生後半のエンリンについては、その上司は、「サーヴィスに逃げていた、何をしたかったのか最後までわからない。」と述べ、実妹は「まあ、あの人は最後まで不幸な人で!」と言っている。「世代」同士の中村稔は、しかし「遠藤は存在自体が作品だったのだから、あれでよかったのではないですか」と著者に語る。美貌と自意識、驕慢と自恃、幻惑的カリスマ性、全体的思惟、ルネサンス的野望、抜群の事務能力と活動力、未来の立原道造・・エンリンを彩る装飾の豊かさに、ラディゲを思わせる才気溢れる青年の姿が髣髴とする。エンリンは出征して行く友の日の丸に「常在高貴」と書いたという。同じ日の丸に「自由は死せず」と書いた「世代」の同士、いいだももはエンリンと好対照でありながらコインの裏と表のようである。いいだは「二十歳にして心朽ちたり」という漢詩の一節をもってエンリンを表した。「朽ちる」という衝撃的な表現の意味は複雑で象徴的ではある。エンリンは自ら朽ちることを選んだと思うのだが。

晩年、どこかの屋台の焼き鳥屋で、通りかかった「世代」の後輩、吉行淳之介に、「ここのヤキトリうまいよ。どう一緒に」と声をかけたエンリンに吉行は断る。“考えようによっては無惨な光景ではある”と著者は言う。だがエンリンは果たして敗者であったろうか。否、彼には世の出世、栄達などは眼中になく、吉行が時の人であろうと、自分の今の境遇がどうであろうと、そんなものを超えて自然に声がかけられる魂の純粋性が顕著だったと信じる。確かに一般的には、”葛藤のドラマこそ人を鍛えてゆくものであり、こうした舞台を何度も経験すること“が人生の醍醐味でもあろう。多くの人のごとく、”自らの家庭生活をしっかりと築きあげ、自らの向学心と表現欲をそれぞれの形で満たしながら、自らの分を知ってつまらぬ野心からは程遠い、隠かな生活“も有り得たであろうか。しかし、エンリンは初めから普通の人の範疇を大きく逸脱していた。小市民的幸福は放擲していた。彼と同時代の原口統三の言葉が作中に引かれている。曰く、「僕がかってお目にかかった“認識者”とは、なべて皆、醜怪な賎民たちにすぎなかった。刃を捨て、昂然と廻れ右をして立ち去ったのは、ひとりランボオだけではなかったか」と。別に作中で中村稔はこう言っている。「原口が僕たちに与えた棘とは、かいつまんでいえば、人が純潔であるとき、何故生きながらえることができるのかという命題であろう、と僕は思う」と。ここにエンリンの生涯についての答えがあるように思われる。原口のように自殺せず、ランボオのようなめくるめく詩の季節をも潜り抜けず、遠藤麟一郎は、53歳まで生きた。幼少より非凡な詩的精神をもちながら創造者たる力には不足を感じたのか。しかし普通の人として生きるには美的感覚が鋭敏すぎたであろう。そのような彼が、生きて自分を汚さず、生きてマンネリズムに観念を消耗させず、つまり生きながら、緩慢に死ぬことを避けるためにこそ、自己流謫の道を意識して選んだのではないかという推測ができる。 学窓を一度出たからには、“散文的持続の季節を迎える”という人生の常道を明晰な意思のもとに拒否したのではないか。むしろ、結果論的には、“持続と時熟の実を”を「世代」の中心ではなく、周辺に居た人たちの方が結ばせていたと著者は言う。美神のごとき遠藤や“スパークする多面体”のごときいいだもも、そしてそのシンパたち中心グループは足早に表舞台から消えた。いかにも執着無く、振り返りさえせずに。踏みとどまることは停滞であり、マンネリズムを生み、不毛の同化に過ぎないとでもいうように彼らは走り去った。出世し、各界の名だたるメンバーとなった周辺人たちが遠藤を語る時、彼らの胸に勝者としての誇りが見られただろうか。否、似た精神土壌を持つとしても、遠藤のようには、いいだもものようには、原口統三のようには生きられないと自己限定できる客観性と冷静さがあり、それが彼らの安全を保障した。しかし自分たちを勝者と認めるほどの無神経は持ち合わせない品性優れた人々であり、遠藤や「世代」はなんといってもなつかしく振り返ることができる青春ではなかったのか。“高貴な自己抑制と自己表現”を知る徹底者として、その後の人生や組織の中で自分をけして売り渡さないため、あえて挫折的生き方を引き受けて、最後まで不遜に生き通したのが遠藤麟一郎であったと友人たちは思わなかっただろうか。人は言うだろう、「人生の艱難辛苦が人間を深め、人格を作るのだ」と。しかし、若くして天才と言われるような人達にとってはそれはそうではない。24歳で死んだ樋口一葉は、頭の中の想像力であの「にごりゑ」を書いた。ランボオは若くして「永遠を見た」と歌った。老齢まで生きた何人の詩人たちが30歳で死んだ中也を凌駕する詩を生み得ただろうか。彼ら若き天才たち、神の寵児たちは早くにして、「見るべきものは見つ」と信じるに足る類まれな頭脳・感受性・想像力・判断力を有していた。遠藤は作品こそ、「世代」に載せた断片を残したのみのようだが紛れも無く、美にとらわれ、芸術的・言語的世界に唯一の価値を置く美の探求者であった。他の物事や生きるうえでの雑事は多分、有能にこなしこそすれ、心はその外にあったのだろう。“ダンディズムからデカダンスへ”と遠藤という“俊敏なる才気”の人はその”高雅なる感性“を使い果たして行ったという醒めた見方がある。著者、粕谷一希は、原口統三の残したものは文学的には無であったという断定と裁断を行った中村光夫の批評に対して静かに反論する。「詩を捨てて死を選んだ青年、ランボオに型取って自らの生と死を完結させようとした詩才に対し、その世代の青年に対し、客観的評価とは別に、一片の花を供える余剰と余韻が、文章の行間にあって然るべきではないか。」と。直接的には原口を弁護した言葉であるが、著者のエンリンとその世代への深い手向けの気持ちとも聴き取れる。前述のように、さまざまな著名人や友人が登場し、「世代」をエンリンを原口を語っている。若き日にはエンリンたちと志を同じくしていた英才たちで、言葉は洞察力に富み、人柄も奥行きを感じさせる。にもかかわらず、この本ではあくまで証言者の役割しか与えられていないこともあって、どの人も決定的な人間的魅力にどこか乏しく思われる。会ってみたい、風貌だけにでもひと目接したいと思うのは、やはり遠藤麟一郎その人であり、同時代の申し子のような原口統三であり、いいだももである。市井に根をはって生命と観念の老いを引き受けて生きるということは”いぶし銀“の輝きは持ち得るとしても、真に燦然たる輝きには見放されることであろう。美または詩の観念と心中してしまった、弱いとも強いとも言い得る魂こそがなつかしく、やさしく、哀切に我々の心を惹きつけるのはその輝く光跡ゆえである。ある世代のトップ・ランナーでありながら、その後をひそやかに生きた遠藤麟一郎に、若い生を純粋培養的に封印してしまった原口統三に、自らの主義に殉じたものとして、その美しさにおいてかなりの分があるのである。著者がこの熱い一冊をものした理由は、頑なに自己を貫いた遠藤への、その詩的魂へのやはり愛惜であろう。

粕谷一希氏のこの本を読んで、一つの詩を思った。エミリー・ブロンテ22歳の時の作品である。私のRose for Enrinとしよう。

   富など取るに足らず
   愛なんてお笑いぐさ
   名誉欲だって暁と共に消える夢
   ・ ・・・求めるのはただ
   耐え抜く勇気をもって
   この世でもあの世でも
   縛られることなき魂
                            
                     松木富美子(017)
                    
「二十歳にして心朽ちたり」
1980年「新潮社」より発行
著者 粕谷一希氏は紫友同窓会元会長(26B)
東京大学法学部卒業後、中央公論へ入社、
雑誌「中央公論」「婦人公論」「思想の科学」
「歴史と人物」「経営問題」の編集に携わる。
昭和53年4月退社。