都立小石川高等学校閉校式典
同窓生代表あいさつ 寺門 克 氏
(06G)



   寺門 克といいます。なんで、寺門が、同窓生、並居る同窓生、先輩の中から出てきてしゃべるのか、本人もよく判りません。

 入学したのが、先ほどから学校の沿革でご説明いただいたように都立小石川高等学校になったのが昭和25年ですが、その翌年の26年です。 
 入学してみますと、無精ひげを生やした人が学校の中にごろごろいました。 校舎が、文京区の、今、茗台中学校ですね、同心町(現小石川4丁目付近)というところにありました。 そこが薄暗い校舎で、当時、視察をしていたアメリカ軍の人が、あまりにもの薄暗さに“小石川プリズン”と呼んだ。 そういう話が伝わっておりましたが、そういうところで、無精ひげを生やした先輩たちが・・・、先輩たちだったんですねー! ただ、先生と区別がつかないんです。 先生も、中には無精ひげを生やした先生もいらっしゃいましたし、大体、“先生”という風に先輩たちは呼びませんで、先生を“さん”づけで呼んでた。 そういうところへポコッと入りましたから、『すごい学校だな!』と。
 当時また、大正8年に開校した歴史ある高校、 …まあ、スタートは中学校で、府立5中 という名前でしたが、そういうところとも知らずに学校に入ったんですが、『すごいんだ!』ということで驚いたんです。 
 そういう学校に入って、私が、たぶん、これは手前勝手ですが、一番恩恵を受けているという風に思う。それぞれまた、皆さん、「私が一番恩恵を受けているんだ。」と思うような時期が来るかもしれません。 政府の制度でいう後期高齢者に、つい先日突入した私にとって、振り返ってみて、『恩恵を受けたのは、私が一番だな。』と思いました。
 先輩や同級生、そういう人たちはもちろん、先生方、特に入学したときに“沢登哲一”という校長さんにですね、「おめーら! まだ、尻に殻付けたひよっこだが、ここへ来たからにゃー、一人前の大人として扱ってやる。ただし、人様に迷惑だけは掛けるなよ。」 こういう入学式のあいさつをいただきました。 まあ、ビックリ仰天したものであります。

 そういう中で、いいクラスメートにも恵まれました。 
 1年生の時、昼休みに遊んでて、お相撲を取ってて、足を折ったんです。その時お相撲を取ってた仲間が、クラスメートが、そこにいる元同窓会会長の“林豊”であります。その林が、2月の初めのころでした。1年生の3学期、足を折って家にいる私のところへ、毎日、数学の授業のノートを取って、届けてくれる。きれいな字でした。私用にノートを1冊買って、届けてくれる。こんな嬉しい体験をした男っていうのは、そうはいないと思います。
 “べらんめー校長の沢登の哲っつぁん”には、ちょっと皆さんには言いにくいのですが、酒の飲み方はずいぶん教わりました。 それで、大先輩の、今日ここにもいらっしゃる元同窓会会長の“粕谷一希”先輩には、「お前は、“沢登バーバリズム”の信奉者だな。」と、こう云われました。 “沢登哲一”さんという人は、戦後の小石川高校において、十数年、校長を続けられましたが、それはそれは太い軍隊の人のようなベルトをして、冷や飯草履でスタスタと学校の中を歩いているという人でありましたから、まさに、野蛮な感じでありました。言行も野蛮だったと思います。 しかし、どうやら、それは沢登さんの個性でありまして、そこにその中に“本校の伝統”があった。“本校の伝統”と言うのは、旧制中学、東京府立第5中学校の伝統でありますが、それがずーっと伝わっている中での一つの形だったと思います。

 学校というのは、学校の名前でもなければ学校の校舎でもない。 先生と生徒、そして、同窓生、あるいは、それを支える父兄の方々、地域の方々が創り出す“ひとつの場”であります。 “パワースポット”そういった方が、今の世代には伝わりやすいかもしれません。 活力の場なんですよ。人によって創り出された場ですから、校舎が同心町にあろうと駕籠町にあろうと、そこに存在するのです。ここは、“駕籠町”と昔は云いました。今は、千石ですが、この駕籠町にあろうと、“小石川という場”、あるいは、“5中という場”があります。
 たまたま私は、先輩に「お前、ちょっと行け。」と言われて、“東京校歌祭”というところで校歌を歌う東京の高等学校のグループに派遣されました。そこで、私が「小石川の寺門です。」と言うと、「あー、5中さんね。」って言われます。そして、先ほど話がありましたが、間もなく95周年、やがて、100周年を迎えるというときには、我々は、創立(時)の校長である“伊藤長七”という人が創り上げた5中の続きなんです。「5中さん!」と言われ、そして、今でも「小石川さん!5中さん!」、そして、いずれ小石川中等教育学校の卒業生の方々も「小石川さん!」と言われ、もしかすると、古い、私共よりも古い方にお目にかかった時に「あー、5中さんね。」と言われるかも知れない。繋がっているからですね。何で繋がっているのかな? そこには、“5中・小石川という場”が繋げてきた“精神”が繋がっているからではないですか。創立校長の“伊藤長七”という人は、「校風につくられる人たるなかれ 校風をつくるの人たれ」という風におっしゃったそうです。校風をつくるということは、その校風を充分に身に付けて、さらに自分が、ひと手、ひと色、それに加えていく。それが校風をつくる。そういう風にしてつくりつくられて、校風が伝わっていく、精神が伝わっていくのではないかという風に思っています。

 さっき、卒業式の時、皆さんいらっしゃいましたよね。 “加藤剛”の話が出て、 …柔道部の後輩なのですが…  村上鬼城の俳句で、「生きかはり 死にかはりして 打つ田かな」という話がありました。「田圃は続くよ。」と。 “田圃は命を繋ぐ場”です。 
 もう一つ考えたのですが、“盆栽”ってありますよね。いい盆栽っていうのは、700年も800年も続いています、一つの鉢の中で。これは、その700年続く盆栽をもっている人は、「お預かりしている。」という言い方をします。「自分が持っている。」とは言わない。「自分より次の人にバトンタッチするために、今、お預かりしている。」と。
 “学校という場”が、盆栽と同じように、我々は先輩から受け継いで、それをまた後輩に渡す、受け継いでもらう。そういう形で、長らくそれを続けなければならないものではないかなという風に感じています。

 ですから、小石川高等学校は本日閉校式を迎えましたが、「小石川」は消えません。
 だから、高等学校という名前が、制度上無くなっても、唯一、「小石川」は消えません。

以上です。
ご清聴ありがとうございます。

<文責: 南 髙之(022C)>
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