85周年会の「まち歩き」記録
第38回 (番外を含めた通算 第46回)
川の跡をたどる - その1
                     本郷 東大下水の跡 (ひがしおおげすい、谷端川の支流)

今回は 2月に山手線巡りを始めた案内人 019 高橋さんの新シリーズ。
これまでのまち歩きとは違って、川の跡というテーマに絞って、明治や大正、昭和初期に発行された地図を見ながら歩くというもの。 川の跡を歩くと、両側には坂も多い。
約一世紀前の われわれが生まれる前の時代であっても、地図をよく見ると、今とは違う当時の様子が伺える。 地図に明記されている川の場所を現地で確認し、その痕跡を発見する楽しみも味わえた。
日 時 : 2013年6月22日(土) 丸ノ内線 本郷三丁目駅改札口、14:00 集合
ルート : 本郷三丁目駅 → 別れの橋跡 → 金魚坂 → 本妙寺坂 → 下水の跡と階段 → 長泉寺 → 炭団坂 → 樋口一葉の井戸 → 鐙坂 → 合流地点 → 一葉ゆかりの伊勢屋質屋 → 胸突坂 → 梨木坂 → 
15:40 
菊水湯で入浴 → 清和公園 (右京山) で休憩 → 新富坂 → 旧東富坂および現東富坂 → 稲荷神社、春日稲荷 → 新 坂(外記坂) → 旧壱岐殿坂 → 新壱岐坂 → 金比羅宮東京分社 → 懇親会会場
参加者 : 27名、  打ち上げ : 23名
案内人 : 高橋俊一 ( 019 )

直前に台風が近づいて雨を覚悟したが、曇り時々晴れのまち歩き日和となった。 
今回は案内人の高橋さんのガイド内容をベースにしている。 ガイドの説明文はこの色で表示している。
 
集合 : 地下鉄 本郷三丁目駅
丸ノ内線は戦前に着工されたそうだが戦争で中断した。
東京では2番目の地下鉄として 池袋-お茶の水間が開通したのは、1954年(昭和29年) 1月。


ここは海抜 22.2m との説明板があった。
まず、本日の資料(明治16年、大正10年の地図と 年表)が案内人から配られた。 地元の人が生活している狭い路地にもはいるので、大声を出さない、道を塞がない、などの注意があった。 スタートは14時8分。
注 : 渡された地図は著作権の関係で掲載することができないため、報告書では割愛する。
 
本郷三丁目交差点
本郷3丁目の交差点には、「本郷もかねやすまでは江戸の内」の説明板がある。 火災防止のため瓦屋根をここまで推奨していた。 わらぶき屋根は禁じられていた。 瓦とわらぶきの屋根の境だった。


別れの橋 跡
太田道灌の頃から、あるいは江戸時代に、江戸を追放された者がこの橋で放たれた。 江戸側の坂では親類縁者が見送り、それを振り返えりながら北側の坂を去っていったので、 「見送り坂」・「見返り坂」 の名が付いた。 この説明板の地点から本郷通りが左右に緩やかに坂となっている。 説明板がなかったら、見送り坂 と 見返り坂 には気がつかないだろう。
菊 坂
菊坂通りに入る。
菊坂は、谷の一番深いところよりもやや上方を通っていて、谷底にはかつて小川が流れていたという。 雨の後の流れと生活排水であった小川は、江戸時代には「東大下水(ひがし・おおげすい)」と呼ばれていたそうだ。 
東大から流れ出る下水(とうだい・げすい)の跡ではないので、お間違えないように。
金 魚 坂
狭い金魚坂を登り、左手の金魚屋さんを見学する。 金魚掬いは懐かしい。 輪の金具の部分を利用して、親父さんが見ていないときに引っ掛けて、おわんの中に金魚を入れ込んだものだ。 レストランも併設されている。

本妙寺坂
明治末まで本妙寺があったために名付けられた。 1657年(明暦3年)の振り袖火事の火元とされたが、真相は幕府の要請によって火元の老中阿部忠秋の汚名をかぶったものであった。 火事後も幕府の庇護を受け、1910年(明治43年)に巣鴨に移るまでこの地にあった。

川の跡 と 階段
この石垣が昔の川の護岸壁で、左側が川だった。 川だったその上には、奥行き3メートルほどの家が建てられた。

この階段 (昔は坂道だったのか?) の下の部分に橋があったようだ。 また、川の向こう側に宮沢賢治の旧居があったという。
長 泉 寺
本妙寺の隣にある寺。 1921年(大正10 年) の地図にある階段が残っている。

門前に「菊坂」についての説明板がある。

寝ざめせし よはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな
樋口夏子 (一葉)
炭 団 坂 (たどんざか)
昔の地図には階段の表記が無く 坂だった。 特に雨上がりには滑って転び落ち、炭団のように泥だらけとなったのが由来のようだ。

右側崖の上には、坪内逍遥が明治17年から20年まで住んでいた。
樋口一葉にどのような関係が有る人がやっているのか、「ひとは」という名の 趣のある喫茶がある。 一葉の井戸は、近そうだ。


この石垣も昔の護岸の名残のようだ。
樋口一葉の井戸
一葉 (1872・明治5年~1896・明治29年) 、24才結核で死去。 井戸への入口に案内がありません。 皆さんで探してください。 青色のアジサイに案内されているかのように細い路地を左に入っていく。 正解でした。
懐かしい手漕ぎの井戸、一葉の井戸があった。 水もちゃんと出る。 飲んでいるのだろうか。
路地の先の急な階段を登って行く。

階段から見返る一葉の井戸。

金田一京助 旧宅
登り切った突き当たりのがけに沿って、右手に進んでいく。 細い道が30mほど続き、出たところで振り返って写真に撮る。

こちら側から一葉の井戸の場所に行けるとはとても想像できない。
この右側の石垣の上に、金田一京助 ・晴彦親子が住んでいたという木造の家が残っている。

このあたりは真砂町と呼ばれていた。
鐙 坂 (あぶみざか)
先端(坂下)が曲がった形をしているので名付けられた。

右側には 手摺りが付けられている。


坂下で大下水の跡に出る。 「菊水湯」はまだ営業していないので、川の跡をそのまま 真っ直ぐに進む。
合流地点
東大下水と 本郷弥生交差点からの坂を流れていた川の合流点。 現在は暗渠に。
左の写真で、東大下水は右側から、支流が奥から合流して、手前に流れていた。 
支流は 菊坂下の交差点から曲がって流れてきていた。 その護岸跡が左に曲がっている (右の写真で 先端が細くなっている) 事から、想像してください。

一葉ゆかりの伊勢屋質屋
土蔵は、外壁を関東大震災後塗り直したが、内部は往時のままだと書かれている。 店の部分は 明治40年に改築している。
一葉の明治26年5月2日の日記から
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。    蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ

そばに懐かしい言葉、「きんらんどんす」と書かれた看板があるので、仲間が写真に撮ってという。
胸 突 坂
かなりの急坂。明治の地図ではここが「菊坂」。長泉寺にあった区の説明板の文言が裏付けられる。 菊坂付近には多くの旅館があった。
傾斜11度と言う。 このそばには明治末には、旅館、下宿屋が30館を数えた。 旅館鳳明館の本館、別館がある。
梨 木 坂
昔 梨の大木があった 『御府内備考』、戸田茂睡が付近に住んで梨本と称した『南向茶話』、 付近の菊の栽培がこのあたりからなくなるので「菊なし坂」から。 などという説明が書かれているが、明治の地図では「奈須坂」。
菊水湯 で休憩
明治中頃の創業で、現在でも井戸水を使っているそうだ。 料金450円。

約30分間の入浴を楽しむ。

今日は風もあり、湯上りで温まった体には、そよ風に感じ、気持ちよい。
清和公園 (右京山)
江戸時代は 高崎藩主松平右京亮 (うきょうのすけ) の中屋敷だったために、右京山、右京ケ原と呼ばれていた。 陸軍、文部省の所有を経て 大正時代に東京市に払い下げられた。

コンビニで湯上りのビールを購入し、飲む人数人。 右京山公園でしばらく休憩をする。

新 富 坂
現春日通りは 1907年(明治40年) 頃に開通したようだ。 坂を緩くするために斜めに通されたので、東西両方の「旧富坂」とは違う場所となった。 道路の向こう側 旧西富坂は、現在の礫川公園の中を通っていた。
旧東富坂 および 現東富坂
江戸時代からの古い道。崖の部分で雁行していた。 旧東富坂の中央部分に丸ノ内線が通されたため、下半分が分断されて現在の状態となった。 銀座線の渋谷駅と共に、丸ノ内線の後楽園や茗荷谷駅はトンネル内ではなく、東京人にとって「地上の地下鉄」は当たり前だった。
 
この先で右に折れ曲がっていた道が、丸の内線で分断された。
そこでもう道路としての役割はなくなってしまって、道の突き当たりに家が建ってしまったという。

この辺は丸の内線が地上を通過している。案内人も知らなかったようだが、地下鉄(丸の内線)のガード下!を通って反対側の坂道に移動。
ちょうどこの前の辺で丸の内線が地下から出たり、入ったりしている。 頑張って金網越しに写真をとる。 普段の生活では なかなか 経験、見学できないことをいろいろと楽しめた。 こだわりの案内人による「まち歩き」ならでは。

稲荷神社
旧春日町は、徳川家光の乳母である春日局/本名 斉藤 福(1579–1643)が拝領した土地。 現在は本郷一丁目の一部となっていて、春日ではない。  別名 出世稲荷。
新 坂 (外記坂)
『江戸切絵図』1853年(嘉永6年 尾張屋清七版)によると、坂上の北側に内藤 外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキザカと書かれている。 いつ頃から「新坂」と呼ばれるようになったのかは分からない。 嘉永6年は幕末なので切り絵図に載っているからと言って古い坂とは限らない。 以前は踏み段部分が広くて歩きにくい階段だったが、踊り場を設ける形に造り直された。

坂上に 朝陽館という旅館がある。 入り口には大きな石灯篭があり、講道館が近いだけに 柔道関係者が多く宿泊しているようだ。
旧壱岐殿坂
江戸時代初期、水道橋近くに小笠原壱岐守の下屋敷があった事から名が付いた。 江戸時代後期の『切り絵図』には載っていない。 新壱岐坂が 旧坂の中央を横切っているが、注意しないと上下の続きを間違えてしまう。

金刀比羅宮東京分社
香川県の金刀比羅宮が本宮で、全国に6箇所ある金刀比羅宮の分社のひとつ。

ここまでで、今回のまち歩きは終了。

次は懇親会場へ。 案内人の用意が良くて、懇親会場は金刀比羅宮のすぐそば、1分もかからない場所でした。
<懇親会>
17:30から始まる。
秋のまち歩き 10月26日予定の「神田上水編」の予告と、同時開催のサテンドールでの冨樫さんライブへの勧誘。 さらに、10月 11,12,13日の 2泊3日での奈良へのまち歩き「番外イベント」の説明もありました。

時間のある人は参加しましょう。
 

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